1882年から建設が続く巨大なローマ・カトリック教会で、ガウディが生涯のほとんどを捧げた代表作。特徴的な塔群や彫刻でキリスト教の物語を表現し、未完成ながら世界的に有名な建築物。
自然界の模倣による構造的合理性
内部の柱は、単なる装飾ではなく樹木を模した構造になっている。天井付近で枝分かれする設計により、巨大な屋根の重量を効率的に分散させている。これはガウディが「自然界に直線は存在しない」と考え、樹木の力学を建築に取り入れた結果である。また、聖堂内のステンドグラスは、東側が冷たい色調、西側が暖かい色調で構成されており、太陽の動きに合わせて内部の色彩が劇的に変化するように計算されている。これは神の創造した自然の光を演出装置として利用する、高度なエンジニアリングの結末である。


資金難による工事中断の危機
建設開始から現在に至るまで、このプロジェクトは常に資金不足の脅威にさらされてきた。サグラダ・ファミリアは「贖罪教会」であり、建設費はすべて信者の寄付と入場料のみで賄うという原則がある。そのため、内戦や経済危機のたびに工事はたびたび中断し、一時は廃墟のような姿で放置されていた時期もあった。現在、工期が短縮されている最大の要因は、世界的な観光地となったことで巨額の入場料収入が安定的に確保できるようになったためであり、皮肉にも商業的な成功が信仰の象徴の完成を後押ししている。
完成へと向かうデジタル技術の導入
かつては完成まで300年はかかると言われていたサグラダ・ファミリアだが、近年は3Dスキャンや3Dプリンティング、CNC加工といった最新のデジタル技術を導入したことで、工期が劇的に短縮されている。ガウディの没後100年にあたる2026年の完成を目指して作業が加速しており、現在は主塔の一つであるイエスの塔の建設が大詰めを迎えている。入場料収入が主な建設資金となっているため、観光客の増加がそのまま建設スピードに直結するという特異な構造を持っている。
尖塔の頂に隠されたシンボル
聖堂の頂上付近にある尖塔には、色鮮やかなベネチアングラスを用いたモザイク装飾が施されている。これらは地上からは肉眼で細部を確認することが困難な高さにあるが、手抜きを一切せず精密に仕上げられている。装飾には果物や麦の穂といった収穫物を象徴するモチーフが多用されており、これらは神への捧げ物を意味している。見えない場所にこそ最高の技術を尽くすという、この建築物の根底にあるストイックな思想が反映されている。
石材に刻まれた数字のパズル
受難の門には、数字が書かれた4×4の正方形の盤が設置されている。一見すると単なる数字の羅列だが、これは縦、横、斜めのどの列を足しても合計が「33」になる魔法陣である。この33という数字は、イエス・キリストが処刑された時の年齢を指しているとされる。しかし、この魔法陣を成立させるために、本来の魔方陣のルールを無視して同じ数字を2回使用している箇所がある。美的な完璧さを求める一方で、特定の意味を持たせるために論理を捻じ曲げるという、信仰心の強さが現れた歪な装飾の一つとなっている。
彫刻に隠された現実の死体
サグラダ・ファミリアの壁面を飾る精巧な彫刻群には、恐ろしい製作過程が隠されている。生誕の門にある「赤子殺し」の場面を製作する際、ガウディはよりリアルな造形を求めて、実際に亡くなった赤子の遺体から石膏で型を取った。大人や動物の彫刻についても、生きた人間に石膏を塗り固めて型を取るという手法を多用した。モデルとなった人々は石膏が固まるまで長時間拘束され、苦痛を強いられた。この執念に近いリアリズムの追求は、信仰のためには手段を選ばないガウディの異常な一面を象徴している。
日本人彫刻家が担う正面の顔
サグラダ・ファミリアの主要な入り口の一つである生誕の門には、日本人彫刻家の外尾・悦郎が制作した15体の天使の像や、精巧な門扉が設置されている。1978年に単身でバルセロナへ渡った彼は、石工として採用された後、ガウディの思考を読み解くことで重要な装飾を次々と任されるようになった。現在、生誕の門は世界遺産に登録されているが、その一部を日本人が手がけている事実は、現地の歴史と日本の技術が密接に融合している稀有な例と言える。
ガウディを否定した芸術家たち
現在でこそ世界遺産として称賛されるサグラダ・ファミリアだが、歴史上では激しい批判の対象にもなってきた。強い影響力を持った作家のジョージ・オーウェルは、スペイン内戦中にこの建物を見て「世界で最も醜い建築物の一つ」と酷評し、無政府主義者がこれを爆破しなかったのは大きな落ち度だとまで言い放った。当時、合理主義や近代化を推進する層にとって、装飾過多で宗教色の強いこの建築は、不気味で時代遅れの産物として軽蔑されていた事実はあまり語られない。
若きピカソが抱いた嫌悪感
パブロ・ピカソはバルセロナで青年期を過ごしたが、当時のバルセロナで主流だったモデルニスモ様式、特にアントニ・ガウディの過剰な装飾性を極めて強く嫌っていた。ピカソにとってガウディの建築は、合理性を欠いた不気味な産物であり、古い宗教観に縛られた過去の遺物に映っていた。彼は友人たちとの会話や書簡の中で、サグラダ・ファミリアを「石の化石」や「悪趣味な怪物」のように表現し、その存在自体が近代芸術の発展を阻害していると批判していた。
地獄に送れという過激な言葉の背景
ピカソはガウディの作風を嫌い、「ガウディとサグラダ・ファミリアを地獄に送れ」と公言していた。ピカソが「ガウディとサグラダ・ファミリアを地獄に送れ」という趣旨の発言を残した背景には、当時の芸術界における保守派と革新派の激しい対立がある。カトリックの信仰と結びついたガウディは、伝統を重んじる保守層の象徴であった。一方、若き日のピカソはアバンギャルド(前衛芸術)の旗手として、既存の価値観を破壊することに情熱を注いでいた。彼にとって、建設が続く巨大な聖堂は、打倒すべき旧体制そのものであった。この発言は、単なる個人的な好悪を超えた、新旧の芸術理論による衝突の結果として記録されている。
バルセロナでの孤立と反発
ピカソがバルセロナを離れてパリへ向かった理由の一つに、バルセロナの芸術界がガウディ的な装飾主義に傾倒していたことへの嫌気があったとされる。ピカソは、ガウディを信奉する人々を「古い殻に閉じこもっている」と切り捨てていた。後年、世界中でガウディが再評価された後も、ピカソの彼に対する冷ややかな評価が大きく変わることはなかった。現在、サグラダ・ファミリアはバルセロナ最大の観光資源となっているが、ピカソという同時代の天才がこの聖堂を激しく拒絶していた事実は、この建築物が持つ特異な性質を浮き彫りにしている。


























