ビラノバ・イ・ラ・ヘルトル(Vilanova i la Geltrú)は、観光客向けの「華やかなリゾート地」という側面と、地元の人々の生活が息づく「伝統的な港町」という側面を併せ持った都市。
人口は約68,000人ほどで、バルセロナ近郊の都市として成長を続けており、カタルーニャ州内でも主要な自治体の一つに数えられている。
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小さなハバナを意味する「ハバナ・チカ」の歴史的背景
ビラノバ・イ・ラ・ヘルトルの成立は13世紀にさかのぼり、1274年にアラゴン王ハイメ1世が都市権を認めたことで、公式な町としての位置付けが確立したとされる。
18世紀から19世紀にかけては、キューバなどアメリカ大陸との交易によって富を得た帰還者インディアノスが多くの邸宅を建設し、町の景観や社会構造に大きな影響を与えた。この時代の繁栄から、小さなハバナを意味するハバナ・チカと呼ばれてきた経緯がある。
19世紀以降は繊維産業に加え、Pirelliをはじめとする工場が進出し、工業都市としての性格を強めた。電線やゴム製品関連の産業が地域経済を支えた時期も確認されている。
地域行事としては、カーニバル期間中に行われるキャンディ戦争が知られ、参加者同士が大量のキャンディを投げ合う風習として定着している。また、1972年に始まったメレンゲ大戦も同じくカーニバルの名物行事とされ、現在まで継続されている。
文化面では、1981年に創設された国際ワールドミュージックフェスティバルが長く開催されており、国内外のアーティストが参加するイベントとして認知されている。加えて、海岸エリアに設置されたギリシャ神話のパシファエ像は、町を象徴する彫刻作品の一つとして紹介されることが多い。
バルセロナ中心からビラノバ・イ・ラ・ヘルトルのアクセス方法
バルセロナの中心部からビラノバ・イ・ラ・ヘルトルへは、カタルーニャ通勤鉄道(ロダリアス)を利用するのが最も一般的で便利。
移動時間は約45分から1時間ほどで、バルセロナ中心部の主要駅から直通列車が出ている。運行頻度 日中は15分から30分間隔で運行されている。
「カタルーニャ広場」や「スペイン広場」の近くから、MonBus(モンブス)という急行バスも運行されている。


ショッピングやおしゃれなカフェ巡り、賑やかなリゾート気分を味わいたいならシッチェスの方がおすすめのようだが、私は鉄道博物館に行きたいのでビラノバ・イ・ラ・ヘルトルを選んだ。

ビラノバ・イ・ラ・ヘルトルが「小さなハバナ」と呼ばれる理由
ビラノバ・イ・ラ・ヘルトルが「小さなハバナ」と称される背景には、19世紀に海を越えて富を築いた人々の歴史が深く関わっている。当時、多くのカタルーニャ人が成功を夢見てキューバをはじめとする新大陸へと渡った。彼らは現地で商売や砂糖の取引などで莫大な富を手にし、やがて故郷であるこの港町へと帰還した。こうした帰国者はスペイン語でインディアノスと呼ばれ、彼らが持ち帰った資金とカリブ海の文化が街の風景を劇的に変えることになった。

インディアノスが再現したハバナの面影
帰国したインディアノスたちは、自らの社会的地位を誇示するために、当時ハバナで流行していたコロニアル様式の邸宅を次々と建設した。高い天井や装飾豊かなファサード、そして南国を思わせるパームツリーが植えられた中庭など、地中海の伝統的な建築とは一線を画す異国情緒あふれる空間が町の中に現れた。特にフランセスク・グメル・イ・フェレールなどの有力者が主導した都市開発によって、街の広場や通りにはカリブ海の明るく開放的な雰囲気が取り入れられた。この景観の変化こそが、現在も続く愛称の直接的な由来となっている。



ビラノバ・イ・ラ・ヘルトルの広場と建築が見せる歴史
街の中心に位置するビラ広場は、その典型的な例として挙げられる。広場を囲むアーケードや整然とした建築群は、当時のハバナの都市計画を彷彿とさせ、訪れる者に大西洋の向こう側の空気を感じさせる。また、彼らが持ち帰ったのは建築様式だけにとどまらない。ラム酒や葉巻、そしてキューバ由来の叙情的な歌であるハバネラといった文化も生活に溶け込み、現在も地元の祭事などでその名残を楽しむことができる。


鉄道開通と都市の近代化がもたらしたもの
インディアノスによる貢献は、単なる懐古的な街づくりにとどまらなかった。フランセスク・グメル・イ・フェレールはバルセロナとビラノバを結ぶ鉄道の敷設に尽力し、街の近代化を加速させた。この鉄道開通により、街は工業化とともにさらなる発展を遂げる。かつてキューバの地で流した汗と手にした富が、鉄道という形で故郷のインフラとなり、現在のビラノバ・イ・ラ・ヘルトルの基盤を作り上げた。この街に漂うハバナの香りは、単なるデザインの模倣ではなく、海を渡った人々の野心と故郷への愛情が結晶化した歴史そのものと言える。



街の知的基盤を支えたビクトル・バラゲー図書館博物館(Biblioteca Museu Víctor Balaguer)
ビクトル・バラゲー図書館博物館は、19世紀のカタルーニャを代表する政治家であり作家でもあったビクトル・バラゲー・イ・シリベル(Víctor Balaguer i Cirera)によって1884年に設立された。エジプト美術やローマ時代の遺物、カタルーニャの美術品などを収蔵する、小さな街にあるとは思えないほど贅沢で多様なコレクションを誇る。


スペイン最大級の鉄道コレクション、カタルーニャ鉄道博物館(Museu del Ferrocarril de Catalunya)
カタルーニャ鉄道博物館はビラノバ・イ・ラ・ヘルトルにあり、19世紀から20世紀にかけての蒸気機関車を中心に、スペイン最大級の鉄道コレクションを所蔵している。
かつて蒸気機関車の重要な拠点だった「扇形車庫」をそのまま活用して1990年に開館。展示されている蒸気機関車の多くは実際にカタルーニャの山岳路線や工業地帯で使われていた実働車で、装飾用ではなく「働く機械」としての痕跡が色濃く残っている。
保存車両の多くは廃車寸前で引き取られ、修復は元鉄道員やボランティアの手作業に頼っている。
イベリア半島の近代化を牽引したバルセロナの鉄路
スペインにおける鉄道の歴史は、政治の中心地マドリードではなく、地中海に面したカタルーニャ地方から幕を開けた。1848年に開通したバルセロナ〜マタロー線は、イベリア半島に産業革命の波を呼び込む象徴的な存在となった。当時、この地域がスペイン国内で突出した経済力と工業化の進展を見せていたことが、最初の鉄道路線建設の地に選ばれた最大の理由と言える。
しかし、この鉄道建設には知られざる苦労が伴った。スペイン初の鉄道車両は鉄道先進国であったイギリスから輸入されたが、船で運ばれてきた機関車を港で組み立てる際、複雑な図面を正確に読み解ける技術者が現地に不足していた。そのため、地元の鍛冶屋たちが知恵を絞り、手探りで作業を進めて機関車を完成させたという泥臭い裏話が残っている。
19世紀のスペイン鉄道建設は、国内資本ではなくイギリスやフランスの資本に大きく依存していた。その結果、線路の敷設ルートや規格はスペイン国民の利便性よりも、投資家である外国人の利益や資源輸送を優先する形で決定されていった。
イベリア広軌の採用と孤立の足かせ
スペインの鉄道史において最大の議論の的となるのが、1668mmという独特の軌間、いわゆるイベリア広軌の採用。隣国フランスをはじめとする欧州諸国の多くが1435mmの標準軌を採用する中で、なぜスペインが独自の広いレール幅を選んだのかについては諸説ある。
最も根強く支持されているのは、ナポレオン・ボナパルト率いる軍勢のような外国勢力の侵入を鉄道経由で許さないための軍事的な防衛策だったという説。敵軍が自国の列車をそのまま乗り入れられないようにすることで、国防を強化しようとした意図が推測される。しかし、この選択は後にカタルーニャを含むスペイン全土の物流を欧州ネットワークから孤立させ、長年にわたる経済的な足かせとなった。
その後、フランコ政権下で鉄道は国有化されスペイン国鉄(RENFE)が誕生。これによって、かつて各地で独自の発展を遂げていた地方色の強い私鉄文化は急速に衰退し、中央集権的な運行体制へと移行していった。

スペインの高速鉄道と独自技術の結実
こうした劣悪な線路状況や特殊な規格という課題を克服するために生まれたのが、スペインが世界に誇る高速列車タルゴ(Talgo)。生みの親であるアレハンドロ・ゴイコエチェア・オマールは、車体を徹底的に軽量化するため、当時としては画期的だった一軸台車という特殊な構造を考案した。この技術により、整備の行き届かない曲線区間が多いスペインの線路でも、高速かつ安定した走行が可能になった。

1992年のセビリア万博に合わせて開通した高速鉄道AVEは、スペインの近代化を世界に知らしめる国威発揚の象徴。このプロジェクトにおける最大の転換点は、歴史的な理由で採用し続けてきた広軌を捨て、初めて欧州標準軌を採用したこと。これによりフランスなどの近隣諸国との将来的な直通運転に道が開かれた一方、大きな問題も浮上。
標準軌を採用したAVEの路線は、広軌のまま残された国内の在来線と物理的に線路がつながらない。この決断は、スペイン国内に新たな線路の分断を生む結果となった。AVEは国際的な評価を得て、2008年にはマドリード〜バルセロナ間も結ばれたものの、採算性よりも政治的配慮が優先されて建設された路線も少なくなく、現在も経営や運用の面で課題を残している。
カタルーニャに逆輸入された鉄道技術と幽霊駅
カタルーニャの鉄道史をさらに深く掘り下げると、意外な国際的背景が見えてくる。1848年のバルセロナ〜マタロー線開通に先立ち、実は当時のスペイン領であったキューバで既に鉄道が敷設されていた。カタルーニャの商人たちはキューバでの砂糖産業を通じて鉄道の有用性を目の当たりにし、その技術的ノウハウや資金を本国へ持ち帰る形でバルセロナの鉄道建設を実現させた。
開通当時の市民にとって、蒸気機関車は未知の恐ろしい存在。マタロー線の開通式典では、火を吹く鉄の怪物への恐怖心から、一般の乗客が誰も乗りたがらないという事態に陥った。困り果てた主催側は、最終的に軍隊を動員して兵士たちを無理やり客車に乗せ、安全性をアピールすることでようやく運行を形にしたというエピソードが伝えられている。
また、バルセロナの都市鉄道網の発達の裏には、近代化の影も潜んでいる。地下鉄の建設過程では、設計の変更や深刻な資金難によって、一度も使われることなく放棄された幽霊駅がいくつか誕生。これらの駅は長い間忘れ去られていたものの、現在では一部が博物館のツアーなどで公開されており、暗い地下空間に当時の計画の跡を残す不気味な姿を観察することができる。
スペインとカタルーニャの鉄路は、常に政治的な思惑と技術的な制約、そして地元の技術者たちの執念が交錯しながら形作られてきた。現在の洗練された高速鉄道網の背後には、こうした泥臭い歴史の積み重ねが存在している。




















ビラノバ・イ・ラ・ヘルトルを散策して見えてくるもの
















