バスクの静かな町が、世界史の主人公になった
ビルバオからバスで45分。移動時間としては「ちょっと遠い近所」という絶妙な距離感にあるゲルニカという町がある。人口は多くない。むしろ少ない。でも知名度だけは一級品だ。なぜなら、ここはピカソの『ゲルニカ』のせいで、世界史の教科書に名前が刻まれてしまった場所だからである。
「特筆すべきスポット」の少なさに驚く
正直に言おう。旅行前、Google Mapで調べると、ここはピカソの『ゲルニカ』以外に特に見どころがない印象を受けた。他にある?いや、ない。でも「せっかく近いし、後で後悔したら嫌だな」という予感が私を突き動かし、思い切ってこの町を訪問することにした。
その判断は、正解だった。

ゲルニカ平和博物館最寄りのバス停。ここから町中心部へ移動する拠点。

町の主要スポットが分かる周辺地図。ゲルニカの散策ルート確認に便利。

ゲルニカ駅のホーム。ビルバオから直行バスや電車でアクセス可能。

「ムヘール・バセリタラ(Mujer Baserritarra)」というブロンズ像で、「バスク地方の農家の女性」を意味している。伝統的にゲルニカの月曜市の市場で自分の農産物を販売してきた「バセリタラ(農家の女性)」の長年の労働と貢献を称えるために制作された。



なぜ『ゲルニカ』が生まれたのか
1937年、スペイン共和国政府はパリ万博に参加することになった。当時スペイン内戦が泥沼化していたため、国際社会にその悲劇を訴える必要があった。そこに目を付けたのが、当時パリに住んでいた若き天才・パブロ・ピカソだ。
最初、ピカソは別のテーマで制作を始めていた。ところが——
1937年4月26日、ゲルニカが爆撃された。
報道はパリにも届いた。詩人たちはピカソの元を訪れ、「この事件を作品にしろ」と促した。当時の新聞記事を読んだピカソは、それまでの構想をあっさり放棄。5月1日付近から、急遽『ゲルニカ』の制作を開始した。
つまり、この傑作は「突然の依頼」から生まれた緊急産だったのだ。
平穏だった町が、歴史の象徴に変わった瞬間
ゲルニカは元々、バスク地方の静かな地方都市だった。農業と地域産業が支えていた、本当に普通の町である。空爆までは、国際社会にはほぼ無視されていた。
しかし空爆によって、この町の名前は世界規模のニュースに登場した。その後、ピカソの『ゲルニカ』が国際的な傑作として認識されることで、小さな町は「暴力批判と平和のシンボル」として永遠に歴史に刻まれることになった。
皮肉なことに、空爆がなければ誰も知らなかった町が、空爆のおかげで世界的に有名になってしまったのである。
訪問時の発見。唯一の賑わい
私が町を歩いてみると、不思議なことに気づいた。この町で唯一といっていいほど人がいる場所があるのだ。
それが「Museo de la Paz de Guernica(ゲルニカ平和博物館)」だ。






他はどこも静かなのに、この施設だけは訪問者が立ち止まり、展示を読み、歴史と向き合う時間を共有していた。
本物が見られない町で、レプリカが象徴になる
もう一つ、面白い事実がある。
ピカソの『ゲルニカ』は現在、マドリードの美術館に所蔵されている。つまり、ゲルニカの町には本物がない。
しかし町中には大きなレプリカが設置されており、訪問者はそこで作品を目にすることができるのだ。観光名所に乏しい町だからこそ、逆にこのレプリカが象徴的な存在として機能している。
本物がなくても、町の歴史と意味は変わらない——それがこの場所の不思議さだと感じた。









