ジプシーと呼ばれたヒターノロマが築いたスペインの道

フラメンコはスペイン、特にアンダルシア地方を代表する芸術形式として知られている。ギターの演奏、足を踏み鳴らすサパテアード、そして独特の歌唱法。これらの要素はジプシー、スペイン語でヒターノと呼ばれる人々が育んできた文化の結晶だ。15世紀にイベリア半島に足を踏み入れて以来、彼らはスペイン社会の外側で生きながらも、この国の文化に消すことのできない足跡を残してきた。

ジプシーという呼称は、かつて彼らがエジプトから来たという誤解に基づいている。実際には北インドを起源とし、長い年月をかけて西へ移動してきた民族だ。現在では差別的なニュアンスを含むとして、ロマと呼ぶことが国際的には推奨されているが、スペインではヒターノという言葉が今も広く使われている。

15世紀の到来から始まった迫害の歴史

1425年、アラゴン王国の記録に初めてロマの集団が登場する。彼らは巡礼者を装い、エジプトからの追放者だと名乗って各地を移動していた。当初、スペインの王族は彼らに通行許可証を与え、ある程度の保護を与えていた。しかし、定住を好まない彼らの生活様式は、次第に当局の警戒心を呼び起こすことになる。

1499年、カトリック両王によって最初の反ロマ法が制定された。この法律は彼らに60日以内の定住か国外退去を命じるものだった。従わない者には鞭打ちや耳の切断という刑罰が科された。だが、この法律は実際にはほとんど効果を上げなかった。ロマたちは山間部や都市の周縁に逃れ、移動生活を続けた。

フェリペ2世の時代には、さらに厳しい法令が出された。ロマの言語使用の禁止、伝統的な衣装の着用禁止、そして彼ら独自の職業からの排除である。これらの法律の背後には、カトリック教会の強い影響があった。異端審問が最盛期を迎えていたこの時代、定住しない民は常に疑いの目で見られたのだ。

グラナダの洞窟住居に息づくロマの暮らし

アンダルシア地方のグラナダ近郊、サクロモンテの丘には、今も多くのロマが洞窟住居に暮らしている。18世紀、都市部から追い出された彼らが岩山に穴を掘って住み始めたのが始まりだ。当初は貧困の象徴だった洞窟住居だが、やがて彼ら独自の文化空間へと変容していった。

洞窟の内部は意外なほど快適だ。夏は涼しく、冬は暖かい。壁は白く塗られ、銅製の鍋や皿が飾られている。天井からはハモンが吊るされ、隅には聖母像が置かれている。カトリックとロマの伝統が混ざり合った独特の空間がそこにある。

1963年、グラナダを襲った大洪水で多くの洞窟が破壊され、住民は政府の用意した団地に移住させられた。だが、多くのロマは数年後に洞窟に戻ってきた。彼らにとって洞窟は単なる住居ではなく、アイデンティティの一部だったのだ。現在、サクロモンテの洞窟の一部は観光客向けのフラメンコショーの会場として使われている。

魂の叫びから国民芸術へ変貌したフラメンコ

フラメンコという芸術形式が確立したのは19世紀のアンダルシアだが、その起源はさらに古い。ロマが持ち込んだインド音楽の要素、アラブ音楽の影響、そしてスペイン南部の民謡が融合して生まれたのがフラメンコだ。

初期のフラメンコは、ロマのコミュニティ内部で演じられる私的な芸術だった。結婚式や葬式、家族の集まりで、彼らは歌い踊った。その歌詞には、差別への怒り、貧困の苦しみ、そして生への渇望が込められていた。カンテ・ホンドと呼ばれる深い歌は、魂の叫びそのものだった。

19世紀半ば、セビーリャやカディスにカフェ・カンタンテと呼ばれるフラメンコ専門の酒場が登場すると、状況が変わった。ロマの芸術家たちは初めて、自分たちの芸で生計を立てる機会を得たのだ。カマロン・デ・ラ・イスラ、パコ・デ・ルシア、カルメン・アマジャといった伝説的な演奏家たちが、この時代以降に登場してくる。

興味深いのは、フラメンコがスペインの国民的芸術として認識されるようになった過程だ。20世紀初頭、知識人たちはフラメンコを「真のスペイン」の象徴として再評価し始めた。長年迫害されてきたロマの文化が、皮肉なことに国家のアイデンティティの一部として取り込まれていったのだ。

馬商人から金属職人まで社会の周縁で生きた人々

歴史的に、ロマは社会の主流から排除された職業に従事してきた。馬の売買、金属加工、籠作り、占い、そして音楽演奏である。これらは定住を必要としない仕事であり、また主流社会が嫌がる仕事でもあった。

スペイン南部では、ロマは優れた馬の目利きとして知られていた。毎年開かれる馬市では、彼らの交渉術が遺憾なく発揮された。価格交渉は一種の芸術であり、何時間もかけて値段を詰めていく。最終的に握手で取引が成立すると、両者は酒を酌み交わした。

鍛冶の技術も重要だった。農具の修理、包丁研ぎ、装飾品の製作など、彼らの金属加工技術は村々で重宝された。移動しながら各地で仕事を請け負い、代金は現金だけでなく食料や衣服でも受け取った。

だが、20世紀後半の産業化は、これらの伝統的職業を衰退させた。馬は自動車に取って代わられ、大量生産品が手工芸品を駆逐した。多くのロマは都市のスラムに流入し、廃品回収や日雇い労働で生計を立てるようになった。

1749年の大検挙で9000人が一斉拘束された悲劇

1749年7月30日、スペイン全土で一斉検挙が行われた。フェルナンド6世の命令により、12歳以上のロマ男性全員が逮捕され、女性と子供は収容所に送られた。この「大検挙」では約9000人が拘束された。

作戦は周到に計画されていた。全国の役人に密封された指令書が配られ、同じ日の同じ時刻に開封して実行に移された。ロマたちは何が起きたのか理解する間もなく、家族と引き離された。男性は鉱山や造船所での強制労働に送られ、多くが過酷な環境下で命を落とした。

この迫害は、ロマを「完全にスペイン化」しようとする試みだった。彼らの文化、言語、生活様式を根絶し、カトリックのスペイン人に同化させることが目的だった。だが、この政策は経済的にも人道的にも失敗だった。収容所の維持費は莫大で、国際的な批判も高まった。1765年、カルロス3世は徐々に解放を始めたが、完全な釈放には数十年を要した。

この出来事は、ロマの集合的記憶に深く刻まれている。高齢者から若者へ、口承で語り継がれてきた。それは単なる歴史上の出来事ではなく、いつでも繰り返されうる脅威として意識されている。

家族の絆と結婚の掟が守るアイデンティティ

ロマ社会において、家族は単なる血縁関係を超えた意味を持つ。それは経済的な相互扶助のネットワークであり、アイデンティティの源泉であり、外部社会に対する防波堤である。

伝統的に、結婚は家族間の同盟を意味した。若者の恋愛は許されるが、最終的な決定権は両家の家長にあった。結婚式は3日間続く盛大な祝祭で、親族だけでなくコミュニティ全体が参加した。

特に重視されたのが、花嫁の純潔だ。結婚初夜の後、血のついたシーツを親族に見せる慣習があった。これは家の名誉に関わる重大事とされた。この慣習は、現代のロマコミュニティでも一部で続いているが、若い世代の間では批判の声も上がっている。

離婚は伝統的に認められていなかったが、実際には柔軟な対応がなされてきた。夫婦関係が破綻した場合、女性は実家に戻ることができた。ただし、その場合も子供は父方の家族に属するとされた。

現代では、ロマと非ロマの結婚も増えている。特に都市部では、伝統的な規範が緩やかになっている。だが、地方の保守的なコミュニティでは、異民族との結婚は依然として家族からの絶縁を意味することがある。

消えゆくカロ語に刻まれた文化の記憶

カロと呼ばれるロマの言語は、スペイン語とロマニ語が混ざり合った独特の言語だ。正確にはクレオール言語ではなく、スペイン語にロマニ語の語彙を大量に取り込んだものだと言える。

カロの語彙の多くは犯罪や取引に関連している。これは、彼らが社会の周縁で生きてきたことの証だ。警察を意味する「テルニ」、盗むを意味する「チョリペアル」、金を意味する「パルネ」など、独自の語彙が発達した。これらの言葉の一部は、スペイン語の俗語に取り込まれ、一般のスペイン人も使うようになった。

20世紀を通じて、カロを話せる人は急速に減少した。学校教育の普及、テレビの影響、都市への移住などが要因だ。現在、完全なカロを操れるのは高齢者のみで、若い世代はスペイン語に少数のカロ語彙を混ぜる程度だ。

言語学者たちは、カロを記録し保存する試みを続けている。だが、言語は生きたコミュニケーションの道具であり、博物館に保存できるものではない。カロの衰退は、一つの文化的世界の消失を意味している。

21世紀の今も残る差別と偏見の実態

21世紀のスペインでも、ロマに対する差別は根強く残っている。雇用、住宅、教育のあらゆる場面で、彼らは不利な立場に置かれている。

2019年の調査によれば、スペイン人の40パーセント以上が、ロマを隣人として望まないと答えている。不動産屋は公然と「ロマには貸さない」という方針を取ることがある。就職の面接で、明らかにロマだとわかる名前や住所を持つ応募者は、最初から排除されることが多い。

学校教育においても課題は大きい。ロマの子供の中退率は非常に高く、高等教育に進む者はごくわずかだ。これは経済的理由だけでなく、学校文化とロマ文化の衝突、教師の偏見、同級生からのいじめなど、複合的な要因による。

一方で、状況は少しずつ改善している。ロマ自身による権利運動が活発化し、差別に対する社会的な意識も高まってきた。1977年、民主化後のスペインで初めてのロマ団体が設立された。現在では、全国に数百のロマ関連団体が存在し、教育支援、職業訓練、権利擁護活動を行っている。

また、成功したロマのロールモデルも登場している。政治家、弁護士、医師、芸術家など、さまざまな分野で活躍するロマ出身者が増えている。彼らの存在は、若い世代に希望を与えている。

フラメンコを超えて活躍するロマ出身の芸術家たち

フラメンコ以外の分野でも、ロマは重要な貢献をしてきた。特に20世紀以降、視覚芸術や文学の世界でロマ出身の芸術家が注目されるようになった。

ヘレス・デ・ラ・フロンテーラ出身の画家マヌエル・ガルバンは、ロマの日常生活を描いた作品で知られる。彼の絵画には、結婚式、葬式、市場での取引、洞窟での生活など、外部の人間がめったに見ることのない光景が描かれている。ガルバンは伝統的な美術教育を受けなかったが、その素朴で力強い画風は高く評価された。

文学の分野では、ホセ・エレディア・マヤという詩人がいる。彼は1930年代に活躍し、カロ語とスペイン語を混ぜた詩を書いた。彼の作品は、ロマの視点からスペイン社会を見るという点で画期的だった。ただし、当時の文壇では周縁的な存在にとどまり、広く認識されるようになったのは死後のことだった。

現代では、映画監督のトニー・ガトリフがロマの物語を国際的な舞台に持ち込んでいる。彼の作品は、ステレオタイプを避けながら、ロマの現実と夢を描き出している。

カトリックとロマ信仰が融合した独自のスピリチュアリティ

表面的には、スペインのロマはカトリック信徒だ。彼らは洗礼を受け、教会で結婚し、聖人を崇拝する。だが、その信仰のあり方は主流のカトリシズムとは異なる独自の要素を持っている。

特に重視されるのが、聖サラという聖人だ。聖サラはロマの守護聖人とされ、毎年5月にフランスのサント・マリー・ド・ラ・メールで大規模な巡礼が行われる。スペインからも多くのロマが参加し、数日間の祝祭が繰り広げられる。

また、死者との関係も独特だ。ロマは死者が生者の世界に影響を及ぼすと信じている。葬式は盛大に行われ、故人の所有物を墓に入れたり燃やしたりする習慣がある。これは、死者が来世でそれらを必要とすると考えられているためだ。

1970年代以降、福音派プロテスタント教会がロマコミュニティに広まった。フィラデルフィア教会という運動は、特にロマの間で成功を収めた。この教会は、アルコール依存や暴力からの解放を説き、多くのロマが改宗した。福音派の教会は、カトリック教会よりもロマの文化的特性に寛容で、礼拝にフラメンコを取り入れるなどの工夫をしている。

声を上げ始めたロマの権利運動と政治参加

長い間、ロマは政治的に無力な存在だった。選挙権はあっても、実際に投票に行く者は少なく、政治家も彼らの票を当てにしていなかった。

だが、1980年代以降、状況は変化し始めた。民主化後のスペインで、少数者の権利が議論されるようになると、ロマもまた声を上げ始めた。最初の動きは地域レベルで始まった。バルセロナ、マドリード、セビーリャなどの都市で、ロマの住民組織が結成された。

1990年代には、全国レベルの組織が力を持つようになった。ロマ財団やセクレタリアド・ヒターノといった団体が、政府との交渉窓口となった。これらの組織は、教育、雇用、住宅政策において、ロマの利益を代表した。

政治家としてのロマも現れた。地方議会レベルでは、ロマ出身の議員が増えている。彼らは必ずしもロマの問題だけを扱うわけではないが、その存在自体が象徴的な意味を持つ。

欧州連合の拡大は、新たな課題をもたらした。東欧からのロマの移民が増加すると、スペインのロマは彼らと区別されることを望んだ。スペインのロマは自分たちを「統合された」存在と見なし、新来のロマを問題視する傾向がある。これは複雑なアイデンティティの問題を提起している。

都市化で変わる伝統と若い世代の葛藤

20世紀後半の急速な都市化は、ロマの生活様式を根本的に変えた。移動生活は不可能になり、多くが都市の周辺部に定住した。

マドリードのバジェカスやバルセロナのラ・ミナといった地区は、ロマが集中する場所として知られている。これらの地区は当初、貧困と犯罪の温床として悪名高かった。麻薬取引、高い失業率、劣悪な住環境が問題だった。

1990年代以降、政府と自治体は再開発プログラムに取り組んだ。古い建物を取り壊し、新しい住宅を建設した。社会サービスを拡充し、学校を改善した。こうした努力は一定の成果を上げたが、完全な解決には至っていない。

都市生活は、伝統的な家族構造にも影響を与えた。かつては大家族が一緒に暮らし、共同で経済活動を行っていた。だが、都市のアパートではそれが不可能だ。核家族化が進み、個人主義的な価値観が浸透してきた。

若い世代は、親の世代とは異なる aspirations を持っている。彼らはスマートフォンを持ち、ソーシャルメディアを使い、非ロマの友人を持つ。伝統的な価値観と現代的な生活様式の間で、彼らは独自のバランスを模索している。

文化の保存か同化か揺れるロマの未来

スペインのロマは、今岐路に立っている。完全な同化か、独自のアイデンティティの維持か。もちろん、現実はこの二者択一ほど単純ではない。

楽観的な見方をすれば、状況は確実に改善している。教育水準は上がり、経済的機会は増え、差別は減少している。ロマであることを隠す必要は、以前ほどなくなった。

だが、課題も多い。貧困率は依然として高く、社会的排除は続いている。ステレオタイプは根強く、メディアでの描かれ方も問題が多い。犯罪報道で容疑者の民族が強調されるのは、ロマの場合が圧倒的に多い。

文化の保存も重要な問題だ。フラメンコは世界的に認知され、ユネスコの無形文化遺産にも登録された。だが、その商業化は本来の意味を希薄化させている。観光客向けのショーは、かつて魂の叫びだったフラメンコを、消費される商品に変えつつある。

言語、習慣、価値観といった文化的要素も、急速に失われている。グローバル化の波は、小さなコミュニティの独自性を飲み込んでいく。

それでも、ロマは生き延びてきた。500年以上にわたる迫害、差別、同化政策に耐え、独自のアイデンティティを保ってきた。その強靭さは、単なる頑固さではない。それは、人間の尊厳と文化的多様性の価値を体現するものだ。

ヒターノと呼ばれる人々が生み出した文化は、スペインという国の重要な構成要素となっている。フラメンコに代表される音楽芸術、独自の生活様式、そして長い歴史を通じて培われた価値観は、この国の文化的な厚みを形成してきた。スペイン社会がこの事実を認識し、ロマを対等な立場で受け入れることができるかどうかが問われている。異なる背景を持つ人々が共存する社会を実現することは、ロマに限らず、この国で暮らすすべての人間が取り組むべき課題である。

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