スペイン語と国王を生んだ大地 カスティーリャ地方

スペインの中心部に広がるカスティーリャ地方。この土地の名を聞いて、多くの日本人がすぐにイメージできるものは少ないかもしれない。しかし、スペインという国家の成り立ちを語る上で、カスティーリャを避けて通ることはできない。なぜなら、この地方こそがスペインの心臓部であり、スペイン語の源流であり、近代スペイン王国の母体となった場所だからだ。

カスティーリャは現在、カスティーリャ・イ・レオン州とカスティーリャ・ラ・マンチャ州という2つの自治州に分かれている。前者は北部、後者は南部に位置し、合わせるとスペインの国土の約3分の1を占める広大な領域となる。この地域を訪れた人々が必ず口にするのが、その圧倒的な平原の光景だ。地平線まで続く麦畑、乾いた大地、点在する古城。夏は灼熱、冬は極寒という過酷な気候が、この土地と人々の性格を形作ってきた。

城壁と要塞に刻まれた戦いの歴史

カスティーリャという名前の由来は、スペイン語で「城」を意味する「カスティーリョ」の複数形だとされている。実際、この地方には数え切れないほどの城や要塞が点在している。それは単なる観光資源ではなく、この土地が歩んできた険しい歴史の証人なのだ。

8世紀初頭、イベリア半島はイスラム勢力によって征服された。わずか数年の間に、半島のほぼ全域がイスラム支配下に入った。しかし、北部の山岳地帯には小さなキリスト教徒の王国が生き残った。アストゥリアス王国である。この小さな王国から、後に「レコンキスタ」と呼ばれる国土回復運動が始まる。

9世紀から10世紀にかけて、アストゥリアス王国は徐々に南へと勢力を拡大していった。その最前線に位置したのが、後にカスティーリャと呼ばれる地域だった。イスラム勢力との境界地帯であるこの地には、防衛のために次々と城が築かれた。まさに「城の地」である。当初、カスティーリャはレオン王国の一部であり、辺境伯が統治する地域に過ぎなかった。

しかし、932年にフェルナン・ゴンサレスという人物がカスティーリャ伯となってから、状況が変わり始める。この人物は非常に野心的で、レオン王国からの独立を画策した。彼は巧みな外交と軍事行動によって、実質的な独立を達成した。伝説によれば、フェルナン・ゴンサレスはレオン王に鷹と馬を売りつけ、支払いが遅れるごとに借金が倍増するという契約を結んだという。最終的に借金は莫大な額に膨れ上がり、その代償としてカスティーリャの独立を認めさせたとされる。真偽のほどは定かではないが、この逸話は彼の狡猾さと独立への執念を物語っている。

スペイン語の源流をたどる旅

カスティーリャの重要性を考える上で、言語の問題は避けて通れない。現在、世界中で話されている「スペイン語」は、正確には「カスティーリャ語」なのだ。スペインには他にもカタルーニャ語、ガリシア語、バスク語など複数の言語があるが、カスティーリャ語が標準語として確立した背景には、カスティーリャ王国の政治的優位性があった。

13世紀、カスティーリャ王アルフォンソ10世は「賢王」と呼ばれた学問好きの君主だった。彼は当時、学術語として使われていたラテン語ではなく、カスティーリャ語で歴史書や法律書を編纂させた。これは画期的な試みだった。それまで俗語と見なされていたカスティーリャ語に、公的な地位を与えたのである。アルフォンソ10世の宮廷には、キリスト教徒だけでなく、ユダヤ人やイスラム教徒の学者も集まり、アラビア語やヘブライ語の文献をカスティーリャ語に翻訳する大規模なプロジェクトが進められた。

この言語政策の影響は計り知れない。カスティーリャ語が文化と学問の言語として確立されたことで、後にスペインが統一された際、カスティーリャ語が自然と国家の共通語となった。さらに、新大陸発見後、スペインの征服者たちがこの言語を南北アメリカ大陸に持ち込んだ。現在、スペイン語を母語とする人口は約4億8000万人に達し、中国語に次ぐ話者数を誇る。その源流がカスティーリャ地方の方言だったという事実は、歴史の皮肉とも言える。

ラ・マンチャの風景が生んだ物語

カスティーリャ地方、特にその南部のラ・マンチャ地方を語る上で、ミゲル・デ・セルバンテスの小説「ドン・キホーテ」に触れないわけにはいかない。この作品は1605年に第1部が出版され、瞬く間にベストセラーとなった。ドン・キホーテは騎士道物語の読み過ぎで現実と虚構の区別がつかなくなった老郷士が、従者サンチョ・パンサを連れて冒険に出る物語だ。

物語の舞台となったラ・マンチャは、広大で単調な平原が続く地域だ。セルバンテスはこの土地を「場所の名は言いたくない」と書いているが、実際にはラ・マンチャ地方の複数の村がドン・キホーテの故郷だと主張している。なかでも、トボソという村は重要だ。なぜなら、ドン・キホーテが心に秘めた貴婦人、ドゥルシネーア姫がこの村の出身という設定になっているからだ。実は彼女の正体は、トボソ村の農家の娘なのだが、ドン・キホーテの妄想の中では気高い姫君となっている。

もっとも有名なエピソードは、ドン・キホーテが風車を巨人と勘違いして突撃する場面だろう。「風車に立ち向かう」という表現は、現在では無謀な挑戦の代名詞となっている。興味深いのは、この風車が単なる文学上の装置ではなく、実際にラ・マンチャ地方の特徴的な風景だったという点だ。この地方は風が強く、小麦の製粉のために多くの風車が建てられていた。現在も、コンスエグラやカンポ・デ・クリプターナといった町には、白壁の風車が並んでおり、観光名所となっている。

セルバンテス自身とカスティーリャの関係も深い。彼は若い頃、徴税吏としてこの地方を巡回していた。しかし、仕事はうまくいかず、会計の不正を疑われて何度も投獄された。牢獄の中で、彼は「ドン・キホーテ」の構想を練ったとされる。皮肉なことに、世界文学史に残る傑作は、失意と困窮の中から生まれたのだ。

ラ・マンチャの風景が生んだ物語

暗黒の制度が刻んだ追放と迫害の記憶

カスティーリャの歴史を語る上で、避けて通れない暗い側面がある。それがスペイン異端審問、いわゆる宗教裁判である。1478年、カスティーリャ女王イサベル1世とアラゴン王フェルナンド2世の要請により、教皇は両王国での異端審問所の設置を認めた。

当初の標的は「コンベルソ」と呼ばれる改宗ユダヤ人だった。15世紀のカスティーリャには、多くのユダヤ人が住んでいた。しかし、反ユダヤ主義の高まりとともに、ユダヤ人への迫害が激化した。多くのユダヤ人が身を守るためにキリスト教に改宗したが、それでも疑いの目を向けられ続けた。「表向きはキリスト教徒だが、密かにユダヤ教の習慣を守っているのではないか」という疑念である。

異端審問所の初代長官となったのが、トマス・デ・トルケマーダという人物だ。彼は冷酷無比な審問官として知られ、在任中に2000人以上を火刑に処したとされる。皮肉なことに、トルケマーダ自身もコンベルソの家系だったという説がある。審問の手続きは恐るべきものだった。密告は奨励され、告発された者は誰が告発したのかも知らされなかった。拷問によって自白が強要され、異端と認定されれば、財産は没収され、火刑に処された。

1492年、イサベル女王とフェルナンド王は、改宗しないユダヤ人全員の追放を命じた。推定で10万人から20万人のユダヤ人がカスティーリャを含むスペインから追放された。彼らの多くは、地中海世界に散らばり、新たな生活を始めた。しかし、彼らが持ち去った技術、知識、そして資本の損失は、スペイン経済に大きな打撃を与えた。

宗教裁判の活動は、その後も長く続いた。16世紀にはプロテスタントが、17世紀には魔女が、そして最後まで疑われ続けたのが改宗ユダヤ人や改宗イスラム教徒だった。スペイン異端審問所が正式に廃止されたのは1834年のことである。実に350年以上にわたって、この制度は存在し続けた。

街全体が歴史の博物館

カスティーリャ地方の都市の中で、特別な輝きを放つのがトレドだ。現在はカスティーリャ・ラ・マンチャ州の州都である小さな町だが、かつてはカスティーリャ王国の首都だった。タホ川に三方を囲まれた岩山の上に築かれたこの町は、難攻不落の要塞都市として栄えた。

トレドの最大の特徴は、その多文化性にある。中世のトレドには、キリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒が共存していた。もちろん、完全に平等だったわけではない。イスラム教徒やユダヤ教徒は、特別な税を課せられ、居住区も制限されていた。しかし、それでも異なる宗教の人々が同じ町で暮らし、互いの文化から学び合うことができた。これを「3つの文化の共存」と呼ぶ。

12世紀から13世紀にかけて、トレドは翻訳活動の中心地となった。アラビア語で書かれたギリシャ哲学やイスラム科学の文献が、ラテン語やカスティーリャ語に翻訳された。翻訳者の多くはユダヤ人だった。彼らはアラビア語、ヘブライ語、ラテン語、そしてカスティーリャ語を自在に操ることができたからだ。この翻訳運動によって、古代ギリシャの知識がヨーロッパに伝わり、後のルネサンスの土台が築かれた。

16世紀後半、トレドにギリシャ出身の画家がやってきた。本名をドメニコス・テオトコプーロスといったが、人々は彼を「エル・グレコ」、つまり「ギリシャ人」と呼んだ。彼の描く細長く引き伸ばされた人物像、不気味な色彩は、当時の人々を当惑させた。依頼主から作品を拒否されることもあった。しかし、エル・グレコはトレドで30年以上を過ごし、この町を愛し続けた。彼の代表作「トレドの景観」は、嵐の近づく劇的な空の下、岩山の上にそびえる町を描いている。この絵には、トレドという町の持つ神秘的な雰囲気が完璧に捉えられている。

エル・グレコの工房があった場所は、今も観光名所となっている。彼の墓があるサント・トメ教会には、代表作「オルガス伯の埋葬」が飾られている。この巨大な絵画は、14世紀の貴族の葬儀を描いたもので、天上界と地上界が同時に描かれている。興味深いのは、地上界の参列者の中に、16世紀のトレド市民の肖像が含まれていることだ。エル・グレコは、過去の出来事を描きながら、実は同時代の人々を記録していたのだ。

街全体が歴史の博物館

首都が移り変わっても色褪せない古都の誇り

1561年、スペイン王フェリペ2世は重大な決断を下した。首都をトレドからマドリードに移すというのだ。この決定は、カスティーリャ地方、そしてスペイン全体に大きな影響を与えた。

なぜマドリードだったのか。当時のマドリードは、取るに足らない小さな町に過ぎなかった。しかし、それこそがフェリペ2世の狙いだった。トレドには古い貴族家系が多く、彼らの影響力を王は警戒していた。一方、マドリードにはそうした伝統的な権力基盤がなかった。白紙の状態から、王の思い通りの首都を作ることができる。また、マドリードはイベリア半島のほぼ中央に位置しており、地理的にも首都としての条件を満たしていた。

この決定により、マドリードは急速に発展した。貴族や官僚、商人たちが次々と移り住み、人口は爆発的に増加した。一方、トレドは静かな地方都市へと衰退していった。しかし、この衰退が結果的にトレドの歴史的景観を保存することにつながった。大規模な近代化の波を免れたため、中世の町並みがそのまま残ったのだ。現在、トレドの旧市街全体が世界遺産に登録されている。

フェリペ2世は、マドリード郊外に壮大な宮殿を建設した。エル・エスコリアル修道院である。これは単なる宮殿ではなく、修道院、王家の霊廟、図書館を兼ねた複合施設だった。幾何学的で厳格な設計は、フェリペ2世の几帳面で敬虔な性格を反映している。彼は生涯の多くをこの修道院で過ごし、膨大な政務文書に目を通し続けた。スペイン帝国は当時、ヨーロッパからアジア、南北アメリカに及ぶ広大な領土を持っていた。「太陽の沈まぬ帝国」と呼ばれた大帝国の中枢が、カスティーリャの小さな修道院にあったのだ。

首都が移り変わっても色褪せない古都の誇り

黄金の文化と衰退の矛盾が共存した時代

17世紀に入ると、スペイン、そしてカスティーリャは深刻な衰退期を迎える。その原因は複雑だが、いくつかの要因が重なった結果だった。

まず、人口の減少がある。16世紀後半から17世紀にかけて、カスティーリャ地方は度重なるペストの流行に見舞われた。特に1596年から1602年、そして1647年から1652年の大流行は壊滅的だった。村によっては人口の半分以上が失われた。さらに、多くの若者が新大陸へと移住し、あるいはヨーロッパ各地での戦争に駆り出された。カスティーリャの人口は、16世紀のピーク時と比べて大幅に減少した。

経済的な問題も深刻だった。新大陸から流入した銀は、一時的な繁栄をもたらしたが、長期的にはインフレーションを引き起こした。製造業が育たなかったため、スペインは他国から製品を輸入し続けなければならず、銀は国外に流出した。また、度重なる戦争と宮廷の贅沢な支出により、国家財政は何度も破綻した。

農業も危機に陥った。過度の羊毛生産重視政策により、耕作地が減少していた。さらに、メスタの特権により、農民は自由に土地を利用できなかった。気候変動も追い打ちをかけた。17世紀は「小氷期」と呼ばれる寒冷期にあたり、カスティーリャのような大陸性気候の地域では、農業生産が大きく落ち込んだ。

しかし、この苦難の時代に、カスティーリャは文化的な黄金時代を迎えた。これを「スペイン黄金世紀」と呼ぶ。セルバンテス、ロペ・デ・ベガ、カルデロン・デ・ラ・バルカといった劇作家や詩人が活躍し、ディエゴ・ベラスケスやフランシスコ・デ・スルバランといった画家が傑作を生み出した。経済的には衰退していたが、文化的には最高潮に達していた。この矛盾は、歴史の不思議な側面である。

鉄道が届いても取り残された地方の現実

18世紀に入ると、スペインの王朝が変わった。ハプスブルク家が断絶し、フランスのブルボン家出身の王がスペインを治めることになった。新しい王朝は、フランス式の中央集権化と近代化を推し進めようとした。しかし、カスティーリャを含むスペイン全体は、近代化の波に乗り遅れていた。

19世紀は、スペインにとって激動の世紀だった。ナポレオンの侵略、独立戦争、王位継承をめぐる内戦、そして植民地の喪失。カスティーリャ地方も、これらの激動に翻弄された。特に、カルリスタ戦争と呼ばれる内戦は、地方に大きな傷跡を残した。

この時期、カスティーリャ地方では、大規模な土地改革が行われた。修道院の土地が没収され、競売にかけられた。これは近代化政策の一環だったが、結果的に大地主が土地を買い占め、土地なし農民が増加した。貧富の格差が拡大し、社会的緊張が高まった。

一方で、鉄道の建設により、カスティーリャ地方の孤立は徐々に解消されていった。マドリードを中心とした放射状の鉄道網が整備され、地方都市も近代化の恩恵を受けるようになった。しかし、工業化は主に沿岸部で進み、内陸部のカスティーリャは相対的に取り残されていった。

20世紀に入ると、状況はさらに複雑になる。1936年に勃発したスペイン内戦は、カスティーリャ地方を二分した。地域によって、共和国派を支持するか、フランコ将軍率いる反乱軍を支持するかが分かれた。3年に及ぶ内戦は、多くの命を奪い、社会に深い傷を残した。

伝統と革新が出会う平原の可能性

内戦後、フランコの独裁政権が約40年続いた。この時期、地方の文化や言語は抑圧され、カスティーリャ語以外の言語の使用は制限された。皮肉なことに、カスティーリャ語は、他の地域の人々にとって抑圧の象徴となった。

フランコの死後、スペインは民主化され、1978年に新憲法が制定された。この憲法により、スペインは自治州制度を採用し、各地方に大幅な自治権が与えられた。カスティーリャ地方も、カスティーリャ・イ・レオン州とカスティーリャ・ラ・マンチャ州として再編された。

現代のカスティーリャ地方は、いくつかの課題に直面している。最大の問題は人口減少だ。特に農村部では、若者が都市部へと流出し、高齢化が進んでいる。「空き家の村」と呼ばれる、ほとんど住民のいなくなった村も少なくない。この現象は「スペインの空洞化」と呼ばれ、国全体の問題となっている。

しかし、希望もある。近年、都市部からの移住者や、外国人の移住者が増えている。安価な住宅、美しい自然、伝統的な生活様式に魅力を感じる人々だ。また、観光業も重要な収入源となっている。トレド、セゴビア、アビラといった古都は、世界中から観光客を集めている。ドン・キホーテゆかりの地を巡るツアーも人気だ。

農業も、質的な変化を遂げている。大規模な小麦栽培に加えて、ブドウ栽培が盛んになっている。カスティーリャ・ラ・マンチャ州は、世界最大のブドウ栽培面積を誇る。また、リベラ・デル・ドゥエロやルエダといった産地は、高品質なワインの生産地として国際的な評価を得ている。サフランの栽培も伝統的に行われており、ラ・マンチャ産のサフランは世界的に有名だ。

戦乱と疫病を超えて受け継がれた価値観

カスティーリャ地方を理解する上で、この土地の人々の気質について触れないわけにはいかない。カスティーリャ人は、しばしば「誠実で、頑固で、誇り高い」と評される。これは、過酷な自然環境と長い歴史の中で培われた性格だと言える。

「カスティーリャの誇り」という言葉がある。これは、外見や贅沢さよりも、内面的な価値や名誉を重んじる姿勢を指す。貧しくても誇りを失わない、困難に屈しないという精神性だ。ドン・キホーテという人物像は、この精神性の戯画化とも言える。現実離れした理想を追い求め、周囲から狂人扱いされても、自分の信念を貫く。滑稽でありながら、どこか尊敬すべき部分もある。それがカスティーリャ人の精神の一面なのかもしれない。

哲学者ミゲル・デ・ウナムーノは、カスティーリャの風景を「瞑想を誘う」と表現した。果てしなく続く平原、灼熱の太陽、凍てつく冬。この厳しい自然の中で、人々は深く物事を考え、人生の意味を問うようになる。カスティーリャ地方からは、多くの神秘主義者や思想家が輩出されている。16世紀のアビラ出身の聖女テレサや、詩人サン・フアン・デ・ラ・クルスもその例だ。

過去から学ぶ現代のカスティーリャ

カスティーリャ地方を旅すると、時間の流れが異なるような感覚に襲われる。古代ローマの水道橋、中世の城壁、ゴシック様式の大聖堂。これらの歴史的建造物が、現代の生活の中に自然に溶け込んでいる。コンビニの隣に12世紀の教会があり、高速道路から中世の城が見える。過去と現在が並存する不思議な空間だ。

カスティーリャ地方の魅力は、その多面性にある。輝かしい歴史もあれば、暗い過去もある。繁栄の時代もあれば、衰退の時代もあった。しかし、どの時代においても、この土地と人々は独自の文化を生み出し続けてきた。

現代のグローバル化の波の中で、カスティーリャ地方は新たな挑戦に直面している。伝統を守りながら、どのように近代化を進めるか。人口減少という深刻な問題にどう対処するか。地域のアイデンティティをどう維持するか。これらは簡単に答えの出る問題ではない。

しかし、千年以上の歴史を持つこの地方は、幾度も危機を乗り越えてきた。イスラム勢力との長い戦い、ペストの大流行、経済的衰退、内戦。そのたびに、カスティーリャの人々は立ち上がり、新たな道を切り開いてきた。その強靭さと柔軟性は、今も受け継がれている。

どこまでも続く麦畑と風力発電の共存景観

カスティーリャの風景について、もう少し語る必要があるだろう。この地方を訪れた人が必ず驚くのが、その空の広さだ。遮るものが何もない平原では、空が圧倒的な存在感を持つ。夏の昼間、太陽は容赦なく大地を焼く。気温が40度を超えることも珍しくない。しかし、日が沈むと、気温は急速に下がる。大陸性気候の特徴である。

冬は冬で厳しい。「カスティーリャの冬は9ヶ月続き、残りの3ヶ月は地獄だ」という諺がある。誇張ではあるが、この地方の気候の過酷さを表現している。冬の夜、気温は氷点下まで下がる。雪が降ることも珍しくない。この厳しい気候が、小麦の栽培に適していた。小麦は寒さに強く、乾燥にも耐える。カスティーリャの大地は、ヨーロッパの穀倉地帯の一つとなった。

平原の中に、突然、岩山がそびえ立つ。その上に、城や町が築かれている。アビラ、セゴビア、クエンカといった町は、まさにそうした地形に建設された。防衛上の理由からだ。平原を見渡せる高い場所に拠点を築くことで、敵の接近をいち早く察知できた。

セゴビアには、ローマ時代の水道橋が今も残っている。紀元1世紀に建設されたこの水道橋は、全長800メートル、最高部の高さは28メートルに達する。驚くべきことに、この巨大な構造物は、モルタルを一切使わずに、石を積み上げただけで造られている。2000年の時を経てもなお機能していたという事実は、ローマの建築技術の高さを物語っている。

アビラは、完全な形で残る城壁で有名だ。11世紀から12世紀にかけて建設されたこの城壁は、全長2.5キロメートル、88の塔と9つの門を持つ。夕暮れ時、城壁の外から町を眺めると、まるで中世にタイムスリップしたかのような錯覚を覚える。この町は、前述の聖女テレサの生地でもある。彼女の生家は現在、修道院となっており、巡礼者が訪れる。

ロマネスクからプラテレスコまで時代の刻印

カスティーリャ地方を歩くと、建築様式の変遷が一目瞭然だ。それぞれの時代が、独自の建築遺産を残している。

ロマネスク様式の教会は、11世紀から12世紀にかけて建てられた。シンプルで堅牢な造りが特徴だ。分厚い壁、小さな窓、半円形のアーチ。まるで要塞のような外観だが、内部に入ると、柱頭に施された彫刻が目を引く。聖書の場面や幻想的な動物が、素朴ながらも力強いタッチで彫られている。セゴビア周辺には、特に美しいロマネスク教会が多く残っている。

13世紀になると、ゴシック様式が登場する。ブルゴスの大聖堂は、スペインゴシック建築の傑作だ。尖頭アーチ、高い天井、大きなステンドグラス。光と空間を重視したゴシック建築の特徴が、見事に表現されている。建設には300年以上かかり、その間に様々な芸術家が関わった。そのため、様々な時代の要素が混在している。それがこの建築物の魅力でもある。

16世紀には、スペイン独自の建築様式「プラテレスコ」が発展した。これは、銀細工のように繊細な装飾を施した様式だ。サラマンカ大学のファサードは、プラテレスコ様式の代表例である。壁面全体が、まるでレースのように細かい彫刻で覆われている。遠くから見ると圧倒的な迫力があり、近くで見ると驚くほど繊細だ。

そして、フェリペ2世の時代には、エル・エスコリアル修道院に代表される、禁欲的で幾何学的な様式が登場する。これは「エレーラ様式」と呼ばれ、装飾を極力排除した、シンプルで厳格なデザインが特徴だ。カトリック改革の精神を建築で表現したものと言える。

語彙をたどれば見えてくる征服と文化の痕跡

カスティーリャ語、つまり現在の標準スペイン語には、この地方の歴史が刻まれている。語彙を見れば、どのような人々がこの土地に暮らし、何を重視してきたかがわかる。

アラビア語からの借用語が多いのは、イスラム支配の影響だ。「アルカサル」は宮殿、「アルマセン」は倉庫、「アセイテ」は油を意味する。これらは皆、アラビア語由来だ。数学用語の「アルゴリズム」や「代数」を意味する「アルヘブラ」も、アラビア語から来ている。イスラム文明の先進性が、言語にも反映されているのだ。

一方、ラテン語からの連続性も明確だ。カスティーリャ語は、ローマ帝国時代に兵士や商人が話していた俗ラテン語が変化したものだ。基本的な語彙の多くは、ラテン語に由来する。ただし、発音は大きく変化した。例えば、ラテン語の「f」の音が、しばしば「h」になった。「息子」を意味する「イホ」は、ラテン語の「フィリウス」から来ているが、発音は大きく異なる。

興味深いのは、カスティーリャ語が他の言語に与えた影響だ。新大陸の征服によって、カスティーリャ語は南北アメリカ大陸に広がった。同時に、先住民の言語から多くの単語を借用した。「トマト」「チョコレート」「タバコ」といった単語は、ナワトル語など先住民の言語に由来する。これらの単語は、カスティーリャ語を経由して、世界中の言語に広まった。

千年を超えて挑み続けるカスティーリャの姿

カスティーリャ地方の未来はどうなるのか。人口減少、高齢化、産業の空洞化。課題は山積している。しかし、新たな動きも生まれている。

再生可能エネルギーの分野では、カスティーリャ地方に可能性がある。広大な土地と強い風は、風力発電に適している。実際、カスティーリャ・イ・レオン州は、スペイン有数の風力発電地域となっている。太陽光発電も盛んになりつつある。これらの産業は、新たな雇用を生み出す可能性がある。

文化観光も重要だ。世界遺産に登録された古都、ドン・キホーテゆかりの地、美しい自然。カスティーリャ地方には、観光資源が豊富にある。重要なのは、持続可能な観光の形を模索することだ。大量の観光客を受け入れて環境や文化を破壊するのではなく、少数の旅行者に質の高い体験を提供する。そのような観光のあり方が、模索されている。

また、テレワークの普及により、都市部に住む必要性が減っている。自然豊かな環境で、ゆったりとした生活を送りたいと考える人々が、カスティーリャの村に移住し始めている。古い家を改修し、新たなコミュニティを作る。そうした動きが、地方再生の希望となっている。

カスティーリャ地方は、常に変化し続けてきた。ローマ帝国の一部から、イスラムとキリスト教の境界地帯へ。そして独立した王国となり、スペイン統一の中核となった。帝国の中心から周辺へと押しやられ、また新たな役割を模索している。この土地の歴史は、変化と適応の歴史だ。

広大な平原を吹き抜ける風は、何世紀も変わらない。しかし、その風を受けて回る風車は、中世の製粉機から現代の発電機へと変わった。変わらないものと変わるもの。その両方を抱えながら、カスティーリャは次の時代へと歩んでいく。

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