カタルーニャという土地
スペインの北東部に位置するカタルーニャは、バルセロナを州都とする自治州である。地中海に面したこの地域は、スペインの中でも独特の文化とアイデンティティを持ち続けてきた。面積は約3万2000平方キロメートル、人口は約770万人。スペイン全体の人口の約16パーセントを占めながら、経済規模ではスペインのGDPの約20パーセントを生み出している。
カタルーニャを理解するには、まずこの地域が単なるスペインの一地方ではないという認識が必要だ。彼らは独自の言語であるカタルーニャ語を持ち、独自の歴史を持ち、独自の文化的アイデンティティを持っている。スペイン語とは別の言語体系を持つカタルーニャ語は、フランス南部やイタリアのサルデーニャ島でも話されており、話者数は全世界で約1000万人に達する。
中世の栄光とバルセロナ伯領の台頭
カタルーニャの歴史は、ローマ帝国の支配から始まる。ローマ人たちはこの地をタラコネンシスと呼び、重要な属州として発展させた。しかし、カタルーニャが独自の政治的実体として形を成し始めたのは、中世に入ってからだった。
9世紀、フランク王国のカール大帝がイベリア半島北部にヒスパニア辺境領を設置した。この辺境領の中心となったのがバルセロナ伯領である。バルセロナ伯たちは次第に独立性を高め、10世紀にはフランク王国からの実質的な独立を果たした。
特筆すべきは、バルセロナ伯ラモン・バランゲー4世の時代である。12世紀、彼はアラゴン王国の女王ペトロニラと結婚し、アラゴン連合王国が誕生した。この連合により、カタルーニャは地中海の強国としての地位を確立していく。
アラゴン連合王国の拡大は目覚ましかった。バレアレス諸島、バレンシア、さらにはシチリア島、サルデーニャ島、ナポリまで支配下に置いた。地中海貿易の中心地として、バルセロナは黄金時代を迎える。当時のバルセロナの商人たちは地中海全域に商館を設置し、莫大な富を築いた。
この時代のカタルーニャには、すでに議会制度の萌芽があった。1283年に設立されたカタルーニャ議会(コルツ・カタラネス)は、貴族、聖職者、都市代表で構成され、課税や法律制定において重要な役割を果たした。この議会の存在は、後のカタルーニャの政治文化に大きな影響を与えている。
スペイン統一がもたらした衰退の時代
1469年、アラゴン王子フェルナンドとカスティーリャ王女イサベルが結婚した。この結婚がスペイン統一の始まりとなる。1479年にフェルナンドがアラゴン王となり、イサベルはすでにカスティーリャ女王だったため、両王国は同君連合を形成した。
しかし、この統合はカタルーニャにとって必ずしも良いものではなかった。カスティーリャの政治的・文化的影響力が増大し、カタルーニャの自治権は徐々に侵食されていった。特に問題だったのは、新大陸発見後の貿易体制である。スペイン王室は新大陸貿易をセビリアに独占させ、カタルーニャの商人たちは大西洋貿易から締め出された。地中海貿易の重要性が低下する中、カタルーニャ経済は停滞していく。
17世紀には、さらなる危機が訪れた。三十年戦争(1618年から1648年)の最中、スペイン王室はカタルーニャに重い税負担と兵士の駐留を強いた。これに反発したカタルーニャは1640年、反乱を起こす。いわゆる「刈り取る者たちの戦争」である。
この反乱の背景には興味深いエピソードがある。1640年6月7日、聖体祭の日、バルセロナに駐留していたカスティーリャの兵士たちと地元の刈り入れ労働者たちの間で衝突が発生した。激高した労働者たちは副王邸を襲撃し、副王を殺害してしまう。この事件をきっかけに、反乱は全カタルーニャに拡大した。
カタルーニャはフランスの保護を求め、一時的にフランスの支配下に入った。しかし、フランスの支配もまた重圧となり、1652年にはスペインへの復帰を選択する。この時、カタルーニャは多くの自治権を失った。
継承戦争が転機となった十八世紀初頭
カタルーニャ史上、最も重要な転換点となったのが18世紀初頭のスペイン継承戦争である。この戦争は、ヨーロッパ全体を巻き込んだ大規模な紛争だった。
1700年、スペイン王カルロス2世が後継者なく死去した。スペイン王位を巡り、フランスのブルボン家とオーストリアのハプスブルク家が対立する。カタルーニャは、自治権の保護を約束したハプスブルク家のカール大公(後の神聖ローマ皇帝カール6世)を支持した。
戦争は長期化し、カタルーニャは激しい戦場となった。当初は優勢だったハプスブルク側だったが、1711年にカール大公が神聖ローマ皇帝に即位すると、ヨーロッパの勢力均衡を恐れたイギリスとオランダが和平へと舵を切った。
1713年、ユトレヒト条約が結ばれ、フランスのフィリップ5世がスペイン王として承認された。しかし、カタルーニャは戦いを続けた。同盟国に見捨てられながらも、バルセロナは包囲に耐え続けた。
1714年9月11日、ついにバルセロナは陥落する。この日は現在、カタルーニャの「国民の日」として記憶されている。バルセロナの守備隊と市民は最後まで抵抗し、多くの犠牲者を出した。特に、指導者の1人だったラファエル・カザノバは、重傷を負いながらも市民を鼓舞し続けた伝説的な人物として今も語り継がれている。
敗北の代償は重かった。フィリップ5世は1716年、新基本法令を発布し、カタルーニャの自治権をほぼ完全に剥奪した。カタルーニャ議会は廃止され、カタルーニャ語の公的使用も禁止された。バルセロナ大学も閉鎖され、カタルーニャの知識人たちは大きな打撃を受けた。
産業革命で再び息を吹き返した時代
しかし、カタルーニャは18世紀後半から復活の兆しを見せ始める。皮肉なことに、新大陸貿易への参加が許可されたことで、カタルーニャ経済は息を吹き返した。特に綿工業が発展し、バルセロナは再び商業都市としての活気を取り戻していく。
19世紀に入ると、カタルーニャはスペインにおける産業革命の中心地となった。1832年、スペイン初の蒸気機関を使った工場がバルセロナに建設された。繊維工業を中心に、機械工業、化学工業も発展し、カタルーニャはスペインで最も工業化された地域となった。
経済的繁栄とともに、文化的覚醒も始まった。19世紀中頃から、カタルーニャ語と文化の復興運動「ラナシェンサ」(再生)が広がる。詩人たちはカタルーニャ語で詩作を始め、歴史家たちはカタルーニャの歴史を再発見していった。
この運動の象徴的な出来事として、1859年に復活したジュゴス・フロラルス(花の詩のコンクール)がある。中世に行われていたこの詩のコンテストの復活は、カタルーニャ文化の再興を象徴する行事となった。
建築家アントニ・ガウディが活躍したのもこの時代である。サグラダ・ファミリア、カサ・ミラ、グエル公園など、彼の作品はカタルーニャ・モデルニスモ(カタルーニャ版アール・ヌーヴォー)の傑作として、今も世界中の人々を魅了している。ガウディの建築は、単なる芸術作品以上の意味を持っていた。それはカタルーニャのアイデンティティの表現であり、カタルーニャ文化の独自性を世界に示すものだった
自治の獲得と内戦の悲劇
20世紀初頭、カタルーニャでは自治を求める運動がさらに活発化した。1914年、カタルーニャ4県の自治体連合であるマンコムニタが設立された。これは限定的ながら、カタルーニャに自治的な行政機構が復活した画期的な出来事だった。
しかし、1923年にプリモ・デ・リベラ将軍がクーデターを起こし、独裁政権を樹立すると、マンコムニタは解散させられ、再びカタルーニャ語の使用も制限された。この抑圧は、かえってカタルーニャのナショナリズムを強めることになった。
1931年、スペイン第二共和制が成立すると、カタルーニャは念願の自治権を獲得した。カタルーニャ自治憲章が承認され、カタルーニャ自治政府(ジャナラリタ)が復活した。初代首相には、左派共和主義者のフランセスク・マシアが就任した。
この時期のカタルーニャは、文化的にも政治的にも花開いた。カタルーニャ語が公用語として復活し、教育、行政、文化活動で広く使われるようになった。バルセロナは前衛芸術の中心地の1つとなり、パブロ・ピカソ、ジョアン・ミロ、サルバドール・ダリといった芸術家たちが活躍した。
だが、この幸福な時期は長く続かなかった。1936年7月、フランシスコ・フランコ将軍を中心とする軍部が反乱を起こし、スペイン内戦が勃発した。カタルーニャは共和国政府側として戦った。
内戦中のカタルーニャには、興味深い社会実験があった。特にバルセロナでは、アナーキストや社会主義者たちによる集団化の試みが大規模に行われた。工場、商店、交通機関などが労働者委員会によって運営され、一時期、バルセロナは世界で最も急進的な都市の1つとなった。作家のジョージ・オーウェルは、この時期のバルセロナを訪れ、後に『カタロニア讃歌』としてその体験を記録している。
しかし、共和国側は内部対立にも苦しめられた。1937年5月、バルセロナでアナーキストと共産主義者の間で武力衝突が発生し、数百人の死者を出した。この内紛は共和国側の弱体化を招いた。
1939年1月、フランコ軍がバルセロナを占領した。数十万人のカタルーニャ人が、フランスへの過酷な脱出行を強いられた。詩人のアントニ・マシャードも、この逃避行の途中でフランスで亡くなっている。そして同年3月、マドリードが陥落し、内戦は終結した。
フランコ独裁下で受けた文化と自由の抑圧
フランコ独裁政権下で、カタルーニャは厳しい弾圧を受けた。自治政府は廃止され、カタルーニャ語の公的使用は完全に禁止された。学校教育、行政、メディア、すべてスペイン語(カスティーリャ語)のみとなった。カタルーニャ語で書かれた本は焚書され、カタルーニャ語の看板は撤去された。
カタルーニャの指導者たちの多くは処刑されるか、亡命を余儀なくされた。内戦中にカタルーニャ自治政府の首相だったリュイス・クンパニスは、フランスのゲシュタポに逮捕され、フランコ政権に引き渡された後、バルセロナで銃殺刑に処された。処刑の直前、彼は靴を脱ぎ、裸足でカタルーニャの大地を踏みしめながら死刑台に向かったという。「カタルーニャ万歳」という最後の言葉を残して。
フランコ政権は、カタルーニャのアイデンティティを根絶しようとした。カタルーニャ固有の祝日は禁止され、伝統的な踊りであるサルダーナも公の場での演奏を禁じられた。人々は家庭内でこっそりとカタルーニャ語を話し、秘密裏に文化を守り続けるしかなかった。
しかし、1960年代になると、状況は少しずつ変化し始める。経済発展政策により、スペインは開放路線に転換し、観光業が発展した。カタルーニャ、特にバルセロナは経済的に繁栄し、スペイン各地から労働者が流入した。この時期、カタルーニャの人口構成は大きく変化し、カタルーニャ語を母語としない住民が増加した。
また、1960年代後半からは、カタルーニャ語の使用制限も徐々に緩和されていった。地下出版や密輸によって、カタルーニャ語の書籍が流通するようになった。歌手のジョアン・マヌエル・セラットや、ラモン・リュル、マリア・デル・マル・ボネなどは、カタルーニャ語で歌うことで、文化的抵抗の象徴となった。
1975年11月、フランコが死去した。この独裁者の死は、スペインとカタルーニャに新しい時代の到来を告げた。
民主化による自治回復と国際都市バルセロナの変貌
フランコの死後、スペインは急速に民主化へと向かった。1977年、40年ぶりに自由選挙が実施され、翌1978年には新憲法が制定された。この憲法は、スペインを「自治州の国家」と定義し、各地域に自治権を認めた。
カタルーニャでは、1977年9月にジャナラリタが暫定的に復活し、亡命先のフランスにいたジュゼップ・タラデリャスが帰国して首相に就任した。タラデリャスのバルセロナ到着の日、数十万人の市民が彼を出迎えた。70歳を超えた彼が群衆に向かって「Ciutadans de Catalunya, ja sóc aquí!」(カタルーニャの市民よ、私は今ここにいる)と叫んだ場面は、カタルーニャ現代史の感動的な瞬間として記憶されている。
1979年、カタルーニャ自治憲章が国民投票で承認された。カタルーニャは再び自治権を持つ州となり、カタルーニャ語は公用語の地位を回復した。教育制度も整備され、カタルーニャ語での教育が復活した。現在では、カタルーニャの学校教育は主にカタルーニャ語で行われ、スペイン語は第二言語として教えられている。
1980年代以降、カタルーニャは文化的にも経済的にも大きく発展した。1992年のバルセロナオリンピックは、カタルーニャを世界に印象づける機会となった。開会式では、カタルーニャの伝統とモダニズムが融合した演出が行われ、世界中に放映された。
オリンピックを契機に、バルセロナの都市インフラは大きく改善された。海岸線は再開発され、新しいビーチが整備された。地下鉄網も拡張され、現代的な国際都市へと変貌を遂げた。
経済面でも、カタルーニャはスペインの牽引役となった。製造業、サービス業、観光業が発展し、多くの多国籍企業がバルセロナにオフィスを構えた。現在、カタルーニャの1人当たりGDPはスペイン平均を大きく上回っている。
21世紀を迎えて高まる独立運動
しかし、経済的成功は必ずしも政治的満足をもたらさなかった。2000年代に入ると、カタルーニャでは独立を求める声が再び高まり始めた。
この動きの背景には、いくつかの要因がある。1つは財政問題である。カタルーニャはスペイン全体のGDPの約20パーセントを生み出しながら、中央政府への税金納付と受け取るサービスの間には大きな格差があった。カタルーニャの政治家たちは、この「財政赤字」を不公平だと訴えた。
もう1つの要因は、自治権をめぐる中央政府との対立である。2006年、カタルーニャは新しい自治憲章を制定し、より広範な自治権を獲得しようとした。しかし、2010年、スペイン憲法裁判所はこの憲章の重要な条項を違憲と判断した。この判決は、カタルーニャの人々に大きな失望をもたらした。
2010年7月10日、100万人以上がバルセロナで抗議デモを行った。「私たちは1つの国民だ」というスローガンを掲げたこのデモは、独立運動の転換点となった。
その後、独立を求める声はさらに高まった。毎年9月11日(カタルーニャの日)には、大規模な独立支持デモが行われるようになった。2012年には150万人、2013年には160万人が参加し、400キロメートルにわたる人間の鎖を作った。2014年には、フランスからバレンシアまで続く約480キロメートルの人間の鎖が形成された。
カタルーニャ自治政府は、住民投票の実施を求めたが、スペイン中央政府はこれを憲法違反として拒否した。2014年11月、カタルーニャ政府は独自に「市民参加プロセス」を実施した。これは法的拘束力のない諮問投票だったが、参加者の約80パーセントが独立を支持した。ただし、投票率は約37パーセントにとどまり、独立反対派の多くはボイコットした。
2015年の自治州議会選挙では、独立派政党が過半数を獲得した。独立派は、この選挙を事実上の住民投票と位置づけていた。しかし、得票率では独立派は約48パーセントで、過半数には達しなかった。
カタルーニャ問題の本質を読み解く
状況は2017年に頂点に達した。カタルーニャ自治政府は、10月1日に独立を問う住民投票を強行すると発表した。スペイン中央政府は、この住民投票を違憲として阻止しようとした。
憲法裁判所は住民投票の停止を命じ、警察は投票所の閉鎖を命じられた。投票日が近づくと、緊張は高まった。カタルーニャ自治政府は、投票箱と投票用紙を秘密裏に準備し、市民たちは投票所となる学校を占拠して警察の介入を阻止しようとした。
10月1日、住民投票が実施された。スペイン国家警察と治安警備隊が投票所に突入し、投票箱を押収しようとした。この過程で、警察と市民の間で衝突が発生し、約900人が負傷した。警察が投票者を引きずり出す場面や、投票箱を奪おうとする場面の映像は世界中に配信され、国際的な批判を呼んだ。
混乱の中でも投票は行われ、カタルーニャ政府の発表では、投票者の約90パーセントが独立を支持したとされた。しかし、投票率は約43パーセントで、多くの住民が投票をボイコットした。また、投票プロセスには重大な不備があり、本人確認の欠如、二重投票の可能性など、結果の信頼性には大きな疑問があった。
10月10日、カタルーニャ自治政府のカルラス・プッチダモン首相は、独立を宣言したが、その効力を停止すると述べた。これは中央政府との対話を求める姿勢だったが、事態の緊張を和らげることはできなかった。
10月27日、カタルーニャ議会は正式に独立を宣言した。しかし、数時間後、スペイン上院は憲法第155条を発動し、カタルーニャの自治権を停止した。プッチダモン首相と閣僚の一部はベルギーに逃亡し、残った閣僚と議会幹部は逮捕された。
スペイン政府はカタルーニャ議会を解散し、12月に選挙を実施した。皮肉なことに、この選挙でも独立派政党が過半数を獲得した。しかし、プッチダモンは亡命先から帰国できず、新政権の樹立は困難を極めた。
繁栄の裏にある葛藤、経済の現実
2017年の危機以降、カタルーニャ問題は膠着状態が続いている。逮捕された独立派の指導者たちには、反乱罪や公金横領罪で長期の禁固刑が言い渡された。この判決は、独立派支持者の間で大きな反発を呼び、再び大規模な抗議デモが発生した。
2021年6月、スペイン政府は独立派の指導者たちに恩赦を与えた。この措置は、対話による解決を目指す姿勢の表れだったが、スペイン国内では賛否両論を呼んだ。一方で融和を評価する声があり、他方で違法行為を容認するものだという批判もあった。
プッチダモン元首相は今もベルギーに滞在している。スペイン政府は彼の引き渡しを求めているが、ベルギー当局は政治的迫害の可能性を理由に引き渡しを拒否している。プッチダモンは欧州議会議員に選出され、政治活動を続けている。
現在のカタルーニャでは、独立支持と反対が拮抗している。各種世論調査によれば、独立支持は約40から45パーセント、反対は約45から50パーセント、残りは態度未定という状況が続いている。
若い世代では独立支持がやや高い傾向にあるが、カタルーニャ語を母語とする住民と、スペイン語を母語とする住民の間では、明確な意識の違いがある。後者の多くは、他のスペイン地域から移住してきた人々やその子孫であり、独立には消極的な傾向がある。
言語をめぐる論争と世代の意識の変化
政治的対立とは別に、カタルーニャの文化は豊かに花開いている。カタルーニャ語は公用語として確立し、文学、音楽、演劇など、あらゆる分野で使用されている。バルセロナは世界的な観光都市として、毎年数百万人の観光客を迎えている。
カタルーニャには独特の祭りや伝統がある。人間の塔を作る「カステイ」は、ユネスコの無形文化遺産に登録されている。高さ10メートルを超える人間の塔を作る姿は圧巻だ。最上部には子供が登り、手を挙げて完成を示す。この伝統は、協力と団結の象徴とされている。
また、火祭り「コレフォック」では、悪魔に扮した人々が火花を散らしながら街を練り歩く。観客も花火や爆竹の火花を浴びながら参加する、世界でも珍しい祭りだ。
食文化も豊かである。地中海に面したカタルーニャの料理は、魚介類、野菜、オリーブオイルを多用する。パン・コン・トマテ(トマトを塗ったパン)は、カタルーニャの食卓に欠かせない。フェラン・アドリアのレストラン「エル・ブリ」は、分子ガストロノミーの聖地として世界の料理界に革命をもたらした。
サッカーも重要な文化要素だ。FCバルセロナは、単なるスポーツクラブ以上の存在である。「クラブ以上のもの」というスローガンが示すように、カタルーニャのアイデンティティの象徴となっている。フランコ時代、カタルーニャ語の使用が制限される中、カンプ・ノウ・スタジアムは、カタルーニャ語を自由に話せる数少ない公共空間の1つだった。
対立の中心にある価値の衝突
カタルーニャ問題を理解するには、経済的要因だけでなく、歴史的・文化的背景を考慮する必要がある。カタルーニャの人々が独立を求める背景には、数世紀にわたる抑圧と自治の喪失の記憶がある。
1714年の敗北、フランコ時代の弾圧、そして2010年の憲法裁判所の判決。これらの歴史的経験が、カタルーニャのアイデンティティを形成してきた。多くのカタルーニャ人にとって、これは単なる政治的な問題ではなく、自分たちが何者であるかという根源的な問いなのだ。
一方で、スペイン側にも譲れない論理がある。スペイン憲法は国家の不可分性を謳っており、一方的な独立は認められない。また、カタルーニャの独立を認めれば、バスクやガリシアなど他の地域にも波及する可能性がある。スペイン政府の立場からすれば、憲法秩序の維持は譲れない一線なのだ。
さらに複雑なのは、カタルーニャ内部も一枚岩ではないという点だ。独立支持派と反対派がほぼ拮抗している状況では、どちらの立場を取っても、社会の約半数を敵に回すことになる。バルセロナの街を歩けば、独立を支持する黄色いリボンと、スペイン国旗が混在している光景を目にする。
欧州という視点から見た地域主義の潮流
カタルーニャ問題は、ヨーロッパ全体の文脈でも考える必要がある。21世紀のヨーロッパでは、スコットランド、フランドル、南チロルなど、各地で地域主義運動が活発化している。EUの統合が進む中で、逆説的に地域のアイデンティティが強調されるようになった。
独立派の論理の1つは、独立してもEUに留まれば、スペインとの経済的関係は維持できるというものだ。国境の意味が薄れたヨーロッパでは、小国でも十分に繁栄できると主張する。実際、ルクセンブルクやマルタのような小国がEU内で成功している例もある。
しかし、EU側の反応は冷ややかだ。EU委員会は、一方的な独立は認めないという立場を明確にしている。新たに独立した地域は、EUに再加盟する必要があり、その際には全加盟国の同意が必要となる。スペインが拒否権を行使すれば、カタルーニャのEU加盟は不可能だ。
この問題は、ヨーロッパの民主主義そのものを問うている。人々の自決権と既存の法秩序、どちらを優先すべきなのか。住民の多数が望めば、独立は認められるべきなのか。それとも、憲法秩序が優先されるべきなのか。これらの問いに、簡単な答えはない。
和解への道と未来への鍵
独立問題が浮上して以降、カタルーニャ経済は影響を受けている。2017年の住民投票後、多くの企業がカタルーニャから本社を移転した。大手銀行のカイシャバンクやサバデル銀行、ガス会社のガス・ナトゥラルなど、約3000社以上が登記上の本社をカタルーニャ外に移した。
これらの企業は、実際の業務はバルセロナで継続しているが、法的な不確実性を避けるための措置だった。この動きは、独立がもたらす経済的リスクを如実に示した。
観光業も影響を受けた。2017年の混乱時には、バルセロナへの観光客が一時的に減少した。ホテルのキャンセルが相次ぎ、業界は大きな打撃を受けた。現在は回復しているが、政治的不安定さは常にリスク要因として存在している。
一方で、カタルーニャの財政問題は現実のものだ。カタルーニャが中央政府に納める税金と、受け取る公共サービスの差額は、年間約140億ユーロに達するとされる。この「財政赤字」は、カタルーニャの州内総生産の約8パーセントに相当する。独立派はこの状況を「略奪」と表現するが、スペイン政府側は、富裕な地域が貧しい地域を支援するのは国家の連帯の原則だと反論する。
カタルーニャから世界が学ぶこと
カタルーニャの事例は、世界の他の地域にとっても重要な教訓を提供している。民族的・文化的マイノリティの権利をどう保障するか。地域の自決権と国家の統一性をどう両立させるか。これらは、多くの国が直面している課題だ。
興味深いのは、カタルーニャ問題が必ずしも民族対立ではないという点だ。カタルーニャ人とスペイン人という明確な区分があるわけではない。多くのカタルーニャ住民は、カタルーニャ人でありスペイン人でもあるという複合的なアイデンティティを持っている。問題は、このアイデンティティをどう理解し、どう制度化するかなのだ。
また、経済的繁栄が必ずしも政治的満足をもたらさないことも示している。カタルーニャは豊かで、高い生活水準を享受している。しかし、それでも多くの人々が現状に不満を持ち、変化を求めている。物質的な豊かさだけでは、人々の政治的・文化的要求を満たすことはできない。
さらに、民主主義の複雑さも浮き彫りになっている。多数決の原理は重要だが、それだけでは不十分だ。少数派の権利、法の支配、対話と妥協、これらすべてが機能してこそ、健全な民主主義が成立する。カタルーニャ問題は、民主主義が単純な原理ではなく、常に調整と配慮が必要な繊細なシステムであることを教えてくれる。
変わりゆく歴史の中で
カタルーニャの物語は、まだ終わっていない。独立が実現するのか、それとも新しい形の自治が確立されるのか、あるいは現状が維持されるのか、誰にも予測できない。
確実なのは、カタルーニャの人々が自分たちのアイデンティティを大切にし続けるということだ。1000年以上の歴史を持つこの地域は、幾度も抑圧を経験しながらも、その文化と言語を守り続けてきた。この粘り強さは、今後も変わらないだろう。
バルセロナの街を歩けば、ガウディの建築物が空に向かってそびえ立ち、ランブラス通りでは人々が行き交い、ゴシック地区の狭い路地では中世の面影が残る。地中海の青い海が街を包み、遠くにはモンセラットの山々が見える。
カタルーニャは美しい。そして複雑だ。この地域の未来がどうなるにせよ、その豊かな文化と歴史は、ヨーロッパの貴重な財産であり続けるだろう。政治的対立を超えて、カタルーニャの人々が平和と繁栄を享受できる日が来ることを願わずにはいられない。
サグラダ・ファミリアは、今も建設が続いている。ガウディの死から100年近くが経った今も、この未完の大聖堂は成長を続けている。まるでカタルーニャそのもののように、この建築物は過去と現在と未来をつなぎ、完成を目指して進化し続けている。そこには、カタルーニャの忍耐と希望が象徴されているように思える。
