バルセロナの軌跡後編 オリンピック後に変わったバルセロナの現在

バルセロナの軌跡後編 オリンピック後に変わったバルセロナの現在
バルセロナの軌跡前編 バルセロナはどう生まれ発展したのか

バルセロナの軌跡前編 バルセロナはどう生まれ発展したのか

1.ローマ都市としての基礎形成 ローマ都市バルチノとヘラクレスの伝説 バルセロナはスペイン東側の海沿いに位置する都市として知られる。国の政治 …

4.観光都市のきっかけとなったバルセロナオリンピック

五輪を口実にした都市の大手術と中央政府からの予算強奪

現在のバルセロナを形作った最大の転換点は、1992年のオリンピック開催にある。
バルセロナがこれほどまでの変貌を求めた最大の動機は、1975年まで続いたフランコ独裁政権下での長きにわたる抑圧からの解放であった。
独裁時代、カタルーニャ語や独自の文化は厳しく制限され、バルセロナはスペイン中央政府(マドリード)からの投資を常に後回しにされる傾向にあった。
都市計画は半ば放棄され、無秩序な工業化が進んだ結果、かつての美しい海岸線は古い工場や倉庫、そして数千人が住む巨大なバラック街によって完全に封鎖されていた。

1990年代(オリンピック前後の街)

1992年の開催決定を機に、当時の市長パスクアル・マラガイを中心とした実行委員会は、単なるスポーツの祭典にとどまらない、100年先を見据えた都市改造計画を策定する。
これは、オリンピックという「国際的な大義名分」を使うことで、マドリードから膨大なインフラ予算を合法的に引き出し、カタルーニャの地盤を強化するための巨大な「国家予算獲得作戦」でもあった。

1986年から1992年にかけて、バルセロナがどのように近代的な都市へ生まれ変わったかがわかる


「都市を世界に開く」という戦略のもと、海岸線を塞いでいた線路や工場は全て地下化、あるいは撤去され、4キロメートルにわたる人工ビーチが誕生した。
このプロセスは、独裁の影を拭い去り、カタルーニャのアイデンティティを世界に示す政治的かつ文化的な独立宣言であり、過去の屈辱的な歴史を上書きするプロセスに他ならなかった。

バルセロナ(Barcelona) 4キロメートルにわたる人工ビーチ

「バルセロナ、美しくなれ」キャンペーンが大成功

バルセロナが観光都市として成功した背景には、1980年代後半から市が主導した「バルセロナ、美しくなれ(Barcelona, posa’t guapa)」という緻密な景観戦略がある。
市は、ガウディを中心とするモデルニスモ建築を「カタルーニャ独自の知性の証明」として再定義し、歴史的建築物の所有者に対して修復費用の補助を行うプログラムを本格化させた。
ここで特筆すべきは、市役所の独自組織「景観保護・質的向上研究所(IMPUvV)」が考案した、公金に頼らない合理的なビジネスモデルである。

市は、建物の外壁修復中に設置される巨大な足場や防護ネットを「屋外広告スペース」として民間企業に販売することを認めた。
ここから得られる巨額の広告収入を建物の修復費に充てることで、公金を投入せずに街全体の美装化を加速させることに成功したのである。
さらに、これらの建築物を線で結ぶ観光ルート「モダニズムの道(ルタ・ダル・ムダルニズマ)」を策定。
主要な建築物の前の地面に赤いタイルを埋め込み、地図を持たない観光客でも地面を辿るだけで街を巡れるように設計した。
この誘導策は、サグラダ・ファミリアなどの特定スポットに集中しがちな動線を分散させ、エシャンプレ地区全体のカフェや店舗に経済効果を波及させる「都市経営の教科書」とも呼べる成功を収めた。

広告ネットに覆われたカサ・バトリョとカサ・ミラ

ガウディの傑作であるカサ・バトリョやカサ・ミラも、この戦略の恩恵を大きく受けた象徴的な存在である。
特に、修復期間中に巨大な広告ネットで建物を覆い、その広告収入を修復費に充てるという「バルセロナ・モデル」がこれら一級の建築物で実践されたことは画期的であった。
当時、これらの建物は現在のような観光客の行列はなく、外壁は黒ずみ、崩落の危険さえ指摘されていた。
キャンペーンを通じてファサード(正面)が洗浄され、ガウディが意図した「光り輝く地中海の波」のような質感が復活したことで、世界遺産登録への道が決定づけられたと言える。

バルセロナ(Barcelona) 広告ネットに覆われたカサ・バトリョとカサ・ミラ

「都市のディズニーランド化」によって地元民が追われることに

急激な近代化と観光地化は、美談だけでは語れない深刻な社会問題も生み出している。
現在のオリンピック村が建つ海岸地区は、かつて「ソモロストロ」と呼ばれた巨大なバラック街であった。
1992年に向けた開発のためにこれらの住居は一掃されたが、当時の住民の多くは強制的な移住を強いられ、輝かしい開発の影で数十年にわたる地域コミュニティが崩壊した事実は重い。
また、1992年以降の観光爆発により、旧市街からは地元の肉屋やパン屋が消え、観光客向けの土産物屋やチェーン店が並ぶ「都市のディズニーランド化」が進行した。

住民たちはこの状況を「バルセロナが魂を売った」と表現し、家賃高騰により地元民が街を追われる「ジェントリフィケーション」に対する激しい抵抗運動を展開している。
「観光客は帰れ(Tourists go home)」という落書きは、かつて独裁政権と戦った市民たちの反骨精神が、今度はオーバーツーリズムという新たな敵に向けられている証拠でもある。
市は現在、宿泊税を増額し、その収益を住民の住環境改善や公共施設の修繕に再投資する仕組みを強化しているが、観光資源としての価値と住民の生活の質をどう両立させるかという問いに、未だ明確な答えは出ていない。

バルセロナで進められている都市計画「スーパーブロック(Superilles)」の解説動画。バルセロナは現在、交通渋滞や騒音、大気汚染といった深刻な都市問題に直面しており、これらを解決するために道路を市民のための空間へと作り変える計画。日本語字幕、日本語音声トラックで見る事ができる。

5.王に頼らず、都市の意思で発展したバルセロナ

バルセロナの2000年を超える軌跡を貫いているのは、常に「国家の中心」ではなく「都市の意思」で発展してきたという強烈な自負である。
ローマ時代の港湾都市から始まり、中世のアラゴン連合王国の経済拠点として成長したが、スペイン王国成立以降は政治の中心から外れた存在となった。
しかし、マドリードに王権が集中する一方で、バルセロナは商人、実業家、そして市民が主導して「稼ぐ都市」としての役割を自ら選び取ってきた。

産業革命で「カタルーニャのマンチェスター」と称される富を築き、その資本をガウディらの芸術に投資して独自の文化を磨き上げ、独裁の暗黒時代さえもオリンピックという口実で逆手に取って近代都市へと脱皮させた。
バルセロナの歴史とは、王に頼らず、国に依存せず、常に「自分たちは何者か」を問い続け、都市の骨格を自らの手で作り替えてきたプロセスそのものである。
現在直面している観光公害や社会的な摩擦もまた、この不屈の都市が次なる時代へと進化するための、新たな闘争の記録と言える。

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