ポルトガルの歴史ー海の向こうに夢を見た小さな国の物語

海の向こうに夢を見た国 ― ポルトガルのはじまり

ヨーロッパの地図のいちばん左のはしっこに、海に面した小さな国がある。
それがポルトガルだ。日本から見ると地球の反対側にある遠い国だけれど、世界の歴史の中ではとても大きな役わりをはたしてきた国でもある。

ポルトガルは、西には大西洋、東にはスペインがある。国のかたちは、まるで長い布をくるっと丸めたように細長い。山も川もあり、海の風がいつも吹いている。だからこそ、昔の人たちは「海の向こうに何があるのだろう」と考えるようになった。

けれど、ポルトガルが最初から「ポルトガル」という国だったわけではない。
その昔、この土地にはローマ人やゲルマン人、そしてイスラムの人々がつぎつぎとやってきて、国を支配した。

700年代には、北アフリカからイスラム教を信じるアラブ人たちがイベリア半島(スペインとポルトガルのある半島)をおそい、長いあいだその地をおさめていた。
しかし、キリスト教を信じる人たちは北のほうで少しずつ力を取りもどし、やがて「自分たちの国を取り返そう」と立ち上がる。これを「レコンキスタ(国土回復運動)」という。

そのころ、北部にあった小さな国・ポルトゥカーレがのちのポルトガルのもとになった。
1143年、アフォンソ・エンリケスという若い王子が戦いに勝ち、「この国は独立した!」と宣言した。これがポルトガル王国のはじまりだ。

アフォンソ王は勇気があり、戦の中でもけっしてあきらめなかった。敵に追いつめられても、「神がわれらを守ってくださる!」と叫び、ついには自分の国を手に入れた。
この独立は当時のヨーロッパでも大ニュースだった。なぜなら、イスラム勢力が強く、キリスト教の国が南で独立するのはとてもむずかしかったからだ。

そして、国の名前はリスボン近くの港町「ポルト(Porto)」と「カレ(Cale)」を合わせたものといわれている。
つまりポルトガルとは「ポルトの国」という意味なのだ。

その後、リスボンが首都となり、商人や船乗りの町としてにぎわっていった。
海に面した小さな国が、やがて世界の海へと乗り出す日が来るのは、そう遠くない未来だった。

“海の時代”をつくった人々

ポルトガルの人々は、海とともに生きてきた。
魚をとり、塩をつくり、船をあやつる技をみがいた。海は彼らにとっておそろしい存在でもあり、同時に夢を運ぶ道でもあった。

1400年代のはじめ、ヨーロッパの国々はアジアから来る「香辛料(スパイス)」に夢中だった。コショウやシナモン、ナツメグといった香辛料は、料理をおいしくするだけでなく、食べ物を保存するのにも使われた。
当時、これらの香辛料は金と同じくらいの価値があった。

しかし、アジアへの道は遠く、イスラムの商人たちが中間で取引していたため、ヨーロッパの国々はなかなか直接手に入れられなかった。
そこでポルトガルの王たちは考えた。
「もしアフリカをまわってインドに行けたら、香辛料を直接買えるのではないか?」

この夢を現実にしようと動いたのが、“航海王子”とよばれたエンリケ王子だ。
彼は自分ではあまり航海に出なかったが、航海士や地図職人、天文学者などを集めて研究をすすめた。
ポルトガルの南にあるサグレスという町に「航海学校」のような施設をつくり、ここで人々は星を見て方角を知る方法や、風の読み方を学んだ。

エンリケ王子は、「地球の果てまで行こう」とは考えていなかった。
ただ、海のむこうの世界を知りたい、貿易をひらきたいという情熱に動かされていたのだ。

やがて、ポルトガルの船はアフリカの西海岸を少しずつ南へ進んでいく。
セウタ、マデイラ諸島、カナリア諸島、アゾレス諸島…。船乗りたちは新しい土地を見つけては、そこに旗を立てた。

1488年、バルトロメウ・ディアスという船長がアフリカの南の端にたどり着いた。
彼はそこを「嵐の岬」と呼んだが、王さまは「希望の岬(喜望峰)」と名づけた。
これがインドへの道をひらく大きな一歩となった。

その十年後、1498年。ヴァスコ・ダ・ガマがついにインドのカリカット(現在のコーリコード)に到着した。
ヨーロッパからアフリカをまわってインドにたどりついたのは、彼が初めてだった。

このニュースは世界をおどろかせた。
ポルトガルは「海の王国」として一気に有名になり、アジアとの貿易で大もうけをした。
香辛料、絹、宝石…。リスボンの港には、世界中の品物が集まってきた。

ポルトガルの光と影 ― 世界を手にしたがゆえの苦しみ

ポルトガルの海の冒険は、やがて「世界の分けあい」へと発展する。

1494年、ポルトガルとスペインのあいだで「トルデシリャス条約」が結ばれた。
これは、地球をまっすぐ線で分けて、西をスペイン、東をポルトガルの支配地とするというものだ。
地球を“半分ずつ分ける”という、今では信じられないような取りきめだった。

この条約のおかげで、のちにブラジル(南アメリカの東側)はポルトガルの領土になった。
1500年、航海者ペドロ・アルヴァレス・カブラルが嵐に流され、偶然ブラジルにたどりついたのだ。
こうして南米にまでポルトガルの旗が立った。

だが、ポルトガルの成功のうらには、悲しい現実もあった。
アフリカの西海岸では、黒人たちが「奴隷」として売られはじめた。
ポルトガル人は、彼らを船に乗せてブラジルやヨーロッパへ連れていった。
はじめは「働き手」としてだったが、しだいにそれは「人を売り買いする商売」となっていった。

リスボンの港には、香辛料のにおいとともに、泣き叫ぶ声も聞こえていたという。
この奴隷貿易によってポルトガルはさらにお金を得たが、多くの命と人間の尊厳をうばった歴史でもある。

そして1755年、ポルトガルをおそった大きな悲劇――リスボン大地震。
11月1日の朝、街の人々が教会で祈っていたそのとき、地面が大きくゆれた。
建物はつぶれ、ろうそくの火が燃えうつり、津波が港をおそった。
死者は数万人。リスボンはほとんど灰になった。

しかし、ポルトガル人はあきらめなかった。
首相ポンバル侯爵がすぐに立ち上がり、「死者を悼むより、まず生き残った者のために働こう」と言って、リスボンを再建した。
彼のもとで作られた新しい町並みは「ポンバル様式」と呼ばれ、地震にも強い設計が取り入れられた。
リスボンは見事によみがえり、「不死鳥の街」とよばれるようになった。

小さな国の大きな復活 ― 近代から現代へ

1800年代に入ると、ヨーロッパでは大きな変化の波が起こる。
ナポレオンというフランスの英雄がヨーロッパを次々と征服していた。
ポルトガルも攻められ、王さま一家はなんと南米のブラジルへ逃げた。

その間に、ブラジルは力をつけ、1822年にはポルトガルから独立してしまう。
こうして、ポルトガルは世界でいちばん大きな植民地を失った。

1908年には国王が暗殺され、1910年に王政が終わり、ポルトガルは共和国になった。
けれども、自由の時代はそう長く続かなかった。

1932年から1974年まで、アントニオ・サラザールという政治家が「独裁」とよばれる強い政治を行った。
彼のもとでは言いたいことを自由に言えず、新聞も検閲された。
「沈黙の時代」と呼ばれるほど、人々はおびえながら暮らしていた。

しかし、1974年の春。
兵士たちが立ち上がり、「もう戦争も独裁もいやだ」と声を上げた。
このとき、人々は銃口に赤いカーネーションの花をさした。
血ではなく花で国を変えたこの革命は、「カーネーション革命」として世界中に知られるようになった。

その後、ポルトガルは自由を取りもどし、ヨーロッパ連合(EU)の一員となった。
通貨はエスクードからユーロに変わり、観光と文化の国として発展していく。

リスボンの街にはトラム(路面電車)が走り、古い町並みと新しい建物がならぶ。
北の町ポルトでは、ワインの香りが川風にのって漂う。
かつて世界を旅した海の国は、いまは人々を迎える国になった。

おわりに ― 小さな国が教えてくれること

ポルトガルは、世界のはしっこにある小さな国だ。
けれど、その小さな国が「世界の海をひらいた」。
むずかしいことに立ち向かい、ときには失敗しながらも、あきらめずに進んできた。

海の向こうに何があるのか――それを知りたいと思った人々の心が、歴史を動かした。
それは今の時代でも同じだ。知らないことに挑戦する勇気が、新しい未来をつくる。

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