1.ローマ都市としての基礎形成
ローマ都市バルチノとヘラクレスの伝説
バルセロナはスペイン東側の海沿いに位置する都市として知られる。国の政治的中心ではないものの、古くから人が集まり働く場所としての性格を強めてきた。
起源についてはギリシャ神話の英雄ヘラクレスにまつわる伝説が残る。ヘラクレスが行方不明になった9番目の船、バルカノナを現在のモンジュイックの丘で見つけたことがバルセロナという地名の由来になったという説が存在する。
歴史を辿ると、紀元前1世紀にローマ帝国がバルチノ(Barcino)として都市を建設した。城壁や街路、港を備えた管理都市としての原型がこの時に完成し、地中海交易や行政の拠点としての役割が定まった。
政治の判断に頼るよりも、街の中で経済を回し、暮らしを支える実用性を重視する考え方は、この時期から根付いていったと推測される。
地中海交易の隆盛を支えた奴隷貿易
中世に入ると、バルセロナはアラゴン連合王国の中核として大きな飛躍を遂げる。
13世紀から15世紀にかけては地中海有数の都市へと成長し、イタリアや北アフリカ、レバント地方を結ぶ商業と金融のネットワークが発達した。
この繁栄は奴隷貿易の存在と密接に関係している。当時の奴隷はキリスト教勢力とイスラム勢力の戦争による捕虜が中心であり、港には多くの人々が連行された。
14世紀から15世紀には人口の約10%を奴隷が占めていた記録も残る。彼らは家事や職人の助手、農作業に従事し、当時の経済を下支えした。かつて慈善家として称えられたアントニ・ロペスが大規模な奴隷商人として活動していた事実は、近年になってから問題視されるようになった。2018年に彼の銅像が撤去された出来事は、街が自らの過去と向き合う象徴的な事件として記憶されている。


聖エウラリアの受難と中央集権による抑圧
聖エウラリアの受難と中央集権による抑圧
宗教的な歴史においても、バルセロナは過酷な記憶を継承している。
守護聖人エウラリアは13歳の時、ローマ帝国によるキリスト教迫害に遭い、13の拷問を受けた。ナイフを仕込んだ樽に入れられ坂を転がされるといった凄惨な処刑の記録は、現在も旧市街のエウラリアの坂という名で残る。
大航海時代以降、貿易の主軸が大西洋へ移ると、マドリードを中心とした中央集権体制が確立された。これに伴いカタルーニャは政治的に抑圧され、バルセロナは一時的に停滞の時期を迎えた。
しかし、こうした逆境が、官僚的な仕組みに頼らず商才によって道を切り拓くバルセロナ独自の気質をさらに強固なものにしたと考えられる。
サン・マルティ・デ・プルベンサルス教会(Sant Martí de Provençals)
バルセロナのサン・マルティ地区に静かに佇むサン・マルティ・デ・プルベンサルス教会は、かつて独立した村であったこの地の中心として機能していた。1052年の文書に既にその名が記されており、10世紀以前から存在したとされる古い歴史を持つ。現在の建物は15世紀から16世紀にかけて再建されたゴシック様式を基調としており、正面玄関にはバルセロナの守護聖人であるサン・マルティ・デ・トゥールの彫刻が刻まれている。

2.19世紀 産業革命と都市爆発
19世紀の産業革命と地中海の工業拠点
19世紀、バルセロナはスペイン国内で突出した工業化を成し遂げ、地中海全域を牽引する経済首都へと変貌を遂げた。
繊維産業の圧倒的な発展により、当時世界最強の工業都市であったイギリスのマンチェスターに擬えて「南欧のマンチェスター」と称されるほど、その生産力は他を圧倒していた。
蒸気機関の導入によって旧市街には数多くの工場が林立し、莫大な富を生む一方で、街は石炭の煙と機械の騒音に包まれた。
しかし、当時のバルセロナは中世以来の軍事城壁に閉じ込められており、増え続ける人口に対して居住スペースが絶対的に不足していた。
太陽の光も届かない劣悪な住環境では疫病が蔓延し、市民にとって城壁は外敵から守る盾ではなく、自らの生命を脅かし成長を阻む「檻」そのものであった。
1854年、市民の長年の嘆願により城壁が解体されると、バルセロナはついに物理的な解放を迎え、壮大な都市拡張へと足を踏み出す。

150年先を読んだ八角形の幾何学模様
城壁の外に広がる広大な土地を整備するために始動したのが、エシャンプラ(拡張)計画である。
設計者イルデフォンス・セルダは、当時の迷路のような都市概念を捨て去り、113メートル四方の街区が規則正しく並ぶ完璧な格子状の街並みを構築した。
この計画の最大の特徴は、全ての街区の角を45度に切り落とした「八角形の交差点」にある。
これは単なるデザインではなく、当時まだ存在しなかった蒸気路面電車や将来の自動車社会を予見し、車両がスムーズに曲がれる「回転半径」をあらかじめ確保した驚異的な先見性の産物であった。
また、セルダは階級による居住環境の格差をなくすという社会主義的な理想を掲げ、全ての住戸が日光と風を受けられるよう、街区の中央に広大な庭園を設ける計画を立てた。
不動産開発の過程で中庭の多くが建物で埋め尽くされてしまったものの、この幾何学的な構造こそが現代のバルセロナを世界で最も歩きやすく美しい都市にした骨格である。
物理的には街がつながった後も、旧村出身の住民たちが「バルセロナ(旧市街)へ行く」と区別して語るような独特の地域愛が、この整然とした街並みの中に多様な彩りを与えている。


万博の栄華と血に染まった一週間
1888年に開催された万国博覧会は、バルセロナが近代的な国際都市へと脱皮したことを世界に知らしめる祝祭となった。
会場に選ばれたのは、かつてスペイン王家が市民を監視・弾圧するために建設した巨大な軍事要塞シウタデリャ(Ciutadella)の跡地である。
市民を威圧し続けてきた大砲の牙城を破壊し、緑豊かな公園へと再生させたことは、バルセロナにとって屈辱的な歴史を塗り替える象徴的な出来事であった。
博覧会のために建設された凱旋門は、軍事的な勝利ではなく「産業と芸術の勝利」を掲げ、バルセロナの黄金時代の幕開けを華やかに飾った。



しかし、この繁栄の裏側では急激な近代化による歪みが限界に達していた。
1909年、モロッコへの徴兵令を機に労働者たちが蜂起した「血の一週間(悲劇の一週間)」が発生し、特権階級と結託したと見なされた教会や修道院が次々と焼き払われた。
軍による苛烈な鎮圧で数百人の死者を出したこの暴動は、バルセロナが抱える光と影、そして権力への根深い抵抗精神を白日の下にさらすこととなった。




3.奪われた言葉と文化の虐殺
1936年に勃発したスペイン内戦の末、1939年1月にバルセロナは陥落し、フランコ軍による40年近い独裁支配が始まった。
共和国側の最大拠点であったバルセロナに対し、フランコ政権は徹底した「スペイン化」を強要する。
カタルーニャ語の公の場での使用は一切禁止され、学校、新聞、ラジオ、さらには赤ちゃんの名前までスペイン語(カスティリャ語)が強制された。
カタルーニャの旗(セニェーラ)を掲げることも犯罪と見なされ、独自のアイデンティティを根絶しようとする「文化の虐殺(カルチュラル・ジェノサイド)」が数十年にわたって続けられた。
街に刻まれた空爆の記憶と防空壕
バルセロナは近代の戦争において、大都市が組織的な無差別空爆を受けた史上初の例の一つである。
旧市街の迷路のような路地の奥にあるサン・フェリプ・ネリ広場には、1938年の空爆で地下の防空壕に避難していた子供たちを含む42人が犠牲となった傷跡が残る。
教会の壁面には、修復されずに残された爆弾の破片による無数の窪みがあり、当時の惨劇を今に伝えている。
市民たちは空からの脅威に晒される中、モンジュイックの丘の麓にある「レフギ307」のように、自らの手で全長400メートルに及ぶトンネルを掘り進め、防空壕を築いた。
これらの地下施設は、極限状態におけるコミュニティの結束と、独裁に抗った市民の知恵を生々しく留めている。
安定化計画と「スペインの奇跡」
1950年代末、それまでフランコ政権が維持してきた自給自足の閉鎖的経済は破綻の瀬戸際に追い込まれた。
1959年、国家存続をかけた経済開放政策「安定化計画」が導入されると、バルセロナは再び工業都市として活気を取り戻し、1960年代には年率約7%に達する「スペインの奇跡」と呼ばれる驚異的な経済成長を遂げる。
1957年に発売された大衆車「SEAT 600」は、それまで高嶺の花だった自動車を中間層に普及させ、バルセロナの路上を埋め尽くす近代化の象徴となった。
工業化による人手不足を補うため、スペイン南部から膨大な数の労働者が流入し、多様なバックグラウンドを持つ「新しいバルセロナ市民」が形成されていく。
一方で、急激な人口増加に住宅供給が追いつかず、モンジュイックの丘の斜面などには電気や水道のないバラック街が広がるなど、都市の歪みもまた顕著となった。






















