20世紀を代表する二人の天才芸術家ピカソとダリ。共にスペイン出身でありながら、その生き方と戦略は驚くほど対照的でした。純粋な創作力だけでなく、いかに自分自身を演出し、時代と向き合ったのか。
20世紀最大のスターとなったピカソの戦略
スペインが生んだ天才画家パブロ・ピカソは、美術史上の偉人という枠を超え、存命中から現代のトップアイドルのような熱狂を巻き起こした。その生涯は、圧倒的な才能と富、そして数々のスキャンダルに彩られている。

ピカソが築いたメディア戦略と大衆の心
ピカソは1950年代から60年代にかけて、メディアを巧みに利用し、自身を天才のアイコンとして売り出した。上半身裸で描く姿や特徴的なボーダーシャツの装いは、大衆にとって芸術そのものの象徴となった。
ピカソは、自身の制作過程や私生活を積極的にメディアへ公開した。写真家のデヴィッド・ダグラス・ダンカンを南仏の邸宅に招き入れ、自身の日常を撮影させたことは有名である。下着姿でくつろぐ様子や、闘牛士のような格好をしておどける姿など、従来の「芸術家」の堅苦しいイメージを覆す写真を世に送り出した。
また、アンリ・ジョルジュ・クルーゾー監督による映画「ピカソ・天才の秘密」では、透明なキャンバスの向こう側で描く自身の姿を披露した。これらにより、作品そのものだけでなく、パブロ・ピカソという人間そのものがエンターテインメントとして大衆に消費される仕組みを構築した。
日本でその存在感を例えるならば、岡本太郎が近い。あるいは、多ジャンルで圧倒的な影響力を持ち、何をやっても注目を集めるビートたけしのようなカリスマ性を備えていたといえる。
ピカソが遺した7500億円の帝国と相続問題の全貌
ピカソの女性遍歴は凄まじく、2度の結婚のほかに数多くの愛人がいた。17歳の少女から20代の女性まで、自身の年齢に関わらず常に若く美しい女性を惹きつけた。しかしその愛は破壊的で、関わった女性の多くが精神を病むか自殺に追い込まれるなど、魔王のような影響力を振るった。
経済的な成功も桁外れであった。1973年に死去した際の遺産総額は、現在の価値で約7500億円から8000億円に上ると推定されている。5つの豪邸や数万点の自作を保有し、存命中に最も富を築いた芸術家として君臨した。現在その記録はデミアン・ハーストなど現代のビジネス的手法を駆使するアーティストたちによって更新されている。しかし、オークション市場における作品の累計落札額や、死後に残された資産の総額において、依然としてパブロ・ピカソは世界トップクラスの地位を維持している。
また、彼は1973年に遺言書を残さずに急死した。そのため、正妻の息子、愛人との間の子供、そして孫たちの間で、約2億5000万ドル(当時の価値)と言われた膨大な遺産を巡る争いが勃発した。その過程で関係者の精神的疲弊や自殺者が出るなどの悲劇を招いた
フランス政府は最も価値の高い重要作品を選び抜いて徴収し、それを基に「パリ・ピカソ美術館」を設立した。それ以外の「現金」「有価証券」「不動産」、そして政府が徴収しなかった数万点に及ぶ「残りの作品」は、6人の相続人によって合意に至るまでには6年の歳月を要し、泥沼の協議の末に分配された。
有名税としてのトラブル
スターゆえのトラブルも絶えなかった。1911年にルーヴル美術館からモナリザが盗まれた際、ピカソは容疑者の一人として警察に連行され、尋問を受けている。知人が盗んだ別の彫像を買い取っていたことが原因だが、法廷でパニックになり友人を裏切るような言動をとったという意外な一面も残されている。
また、私生活を暴露した愛人の本の出版を差し止めるために裁判を起こしたり、遺言書を残さなかったことで死後に親族間で泥沼の相続争いが発生したりするなど、周囲を巻き込む騒動が絶えなかった。
支配欲の塊と徹底したケチ伝説
ピカソは身近な人間を精神的に支配しようとする傾向が強く、自身の抜け毛や爪が他人の手に渡ることを極端に嫌うなど、異様なこだわりを持っていた。
金銭面でも執着が強く、小切手の裏に絵を描けば店主が換金せずに家宝にするだろうと見越して支払いを行うなど、資産家でありながら計算高い振る舞いを見せた。
ピカソの眼に映った日本
ピカソは一度も来日しなかったが、日本の春画に対して強い関心を持っていた。葛飾北斎などの浮世絵を大量に収集し、その大胆な構図を絶賛していた事実は有名である。
また、1950年代以降に自身の作品を高く評価し、買い支えた日本人コレクターたちを、自身の芸術の良き理解者として認めていた。藤田嗣治のような日本人画家との交流もあり、日本という国は彼にとって、インスピレーションの源であり、かつ重要なマーケットでもあった。
ダリの商業戦略、シュルレアリズムを金に変えた手段
ピカソが20世紀美術の「魔王」であったなら、サルバドール・ダリは「稀代の演出家」であった。ピンと跳ね上がった独特の口ひげと、見開いた大きな瞳。一目でそれと分かるビジュアルを武器に、彼は自身を「天才」という名のブランドへと昇華させた。ダリの生涯は、緻密な計算に基づいた自己プロデュースと、その裏側に隠された繊細な狂気に満ちている。

「天才のふりをすれば天才になる」を実行した男
しかし、これらはすべて大衆の視線を惹きつけるための高度なパフォーマンスであった。 彼は「天才になるには、天才のふりをすればいい」と公言し、自らをシュルレアリスムそのものとして定義した。
自身の夢や潜在意識をキャンバスに投影する一方で、ビジネスマンとしての顔も併せ持っていた。
最愛のミューズ・ガラとの共依存
ダリの人生を語る上で、妻ガラの存在は欠かせない。ピカソが女性たちを破壊し尽くしたのに対し、ダリは一人の女性に絶対的な支配を許した。
ガラはダリにとっての聖母であり、マネージャーであり、そして絶対的な君主であった。 ダリは自分の作品に「ダリとガラ」と連名で署名することすらあった。
ガラはダリの狂気的な才能を管理し、高値で作品を売り捌くビジネスの才を発揮した。
しかし、晩年の二人の関係は冷え込み、ガラは若い男たちとの放蕩に耽り、ダリは彼女の住む城に入るために事前に書面で許可を得なければならないという奇妙な契約を結んでいた。最愛の人に拒絶される恐怖と孤独は、ダリの精神を深く蝕んでいった。
白紙に署名するだけで大金を得た
ダリは商業的な成功を一切恥じなかった。ロゴデザインや広告、映画制作、ジュエリーのデザインなど、節操がないと言われるほど多方面に手を広げた。有名なチュッパチャプスのロゴデザインも、彼の仕事の一つである。
晩年には、白紙の画用紙に数千枚の署名だけを行い、後にそれが贋作問題を引き起こすなど、金銭に執着するあまり自身の芸術的信頼を切り売りするような騒動も起こした。
彼の遺産争いもまた複雑を極めたが、最終的にはスペイン国家にすべての遺産を譲渡するという劇的な幕引きを選んだ。
ダリが見た日本と伝統への憧憬
ダリもまた、ピカソと同様に日本文化から刺激を受けていた一人である。彼は日本の「禅」の思想や、ミニマリズムに通じる空間構成に興味を示していた。
また、1964年に東京で開催された大規模な「ダリ展」は大盛況となり、日本におけるシュルレアリスム人気の決定打となった。
彼はインタビューで、日本の繊細な工芸技術や、伝統的な様式美を高く評価する発言を残している。
ダリにとって日本は、自らの奇抜な世界観を熱狂的に受け入れる「理解者たちの国」であると同時に、合理主義的な西洋とは異なる神秘性を秘めた地として映っていたのである。
ピカソとダリ、共産主義者と王党派の永遠の決別
パブロ・ピカソとサルバドール・ダリ。同じスペイン出身でありながら、一方は共産主義に傾倒した「破壊者」、もう一方は王政を支持した「虚飾の天才」として、全く異なる軌跡を描いた。しかし、その生涯において二人の天才は互いを強烈に意識し、複雑な感情を抱き合っていた。
若きダリの崇拝とピカソの沈黙
ダリが初めてパリを訪れた1926年、彼は真っ先にピカソの元を訪ねた。「ルーヴル美術館に行く前に、あなたに会いに来ました」と告げるダリに対し、ピカソは「君は正しい」と答えたという。
当時、ピカソはすでに美術界の頂点におり、ダリにとって彼は乗り越えるべき巨大な壁であり、神のごとき崇拝の対象であった。
初期のダリの作品には、ピカソのキュビスムの影響が色濃く反映されている。
ピカソもまた、若きダリの圧倒的な描画技術をいち早く認め、自身の画商に彼を紹介するなど、初期段階では寛容な先輩としての態度を示していた。
同じスペイン人画家が歩んだ相反する二つの道
二人の決定的な溝は、政治的な姿勢の違いから生まれた。スペイン内戦において、ピカソは『ゲルニカ』を描き、反ファシズムの旗手となった。対してダリは、独裁者フランコを支持する言動を繰り返し、シュルレアリストのグループからも追放されることとなる。
ピカソはこのダリの変節を許さず、以降ダリが何度接触を試みても、二度と彼に会うことはなかった。ダリがピカソに宛てて送った数多くの手紙や電報は、一度も返信されることなくピカソの手元に積み上げられたという。
「ピカソはスペイン人、私もスペイン人だ」
ダリは公の場で、ピカソへの賞賛と挑発を繰り返した。「ピカソは天才だ、私もだ。ピカソは共産主義者だ、私は違う」という有名なフレーズは、ピカソに対する劣等感と、自分こそがスペイン最大の画家であるという自負が入り混じった彼なりの愛憎表現であった。
ダリはピカソを「父」のように慕いながらも、その影を払拭するために彼を公然と批判し、注目を集める手法をとった。
一方のピカソは、ダリの才能を認めつつも、その徹底した商業主義と政治的立ち振る舞いに対して、死ぬまで沈黙を貫くという最も残酷な拒絶で応えた。
作品に見る「破壊」と「偏執」の対比
二人の芸術性は、その性格と同様に対照的である。ピカソが対象を解体し、再構築することで「形」を破壊したのに対し、ダリは写実的な技法を極限まで突き詰め、現実にはあり得ない悪夢のような風景を具現化した。 ピカソの多作は「生命力の爆発」であり、ダリの緻密さは「偏執狂的な計算」の結果であった。20世紀という激動の時代、この二人の天才が競い合い、反発し合ったことで、現代美術の地平は計り知れない広がりを見せることとなったのである。
