かつて「ヨーロッパで最も汚染された街のひとつ」と呼ばれた暗い過去
スペイン北部バスク地方の中心都市ビルバオ。この街を歩くと、まるで2つの異なる時代に迷い込んだような感覚に襲われる。ネルビオン川沿いに輝くチタンの外壁を持つグッゲンハイム美術館、そこから少し歩けば、中世の面影を残す旧市街カスコ・ビエホの石畳が続く。この極端なコントラストこそが、ビルバオという街の本質を物語っている。
しかし、この光り輝く現代的な景観の裏には、かつて「ヨーロッパで最も汚染された街のひとつ」と呼ばれた暗い過去が隠されている。そして、スペインの他都市の旧市街が観光地化された歴史的建造物の集中するエリアとして親しまれているのに対し、ビルバオの旧市街は長い間、まったく異なるイメージを持たれてきた。臭い、汚い、治安の悪い場所として。
では、なぜこのような極端な違いが生まれたのか。その答えは、ビルバオが歩んできた激動の歴史にある。
バスク地方最大の工業都市の栄光
19世紀から20世紀半ばにかけて、ビルバオはバスク地方で最も大きな工業都市として君臨していた。ネルビオン川の河口に位置するという地理的優位性を活かし、鉄鉱石の採掘から始まった産業は、やがて鉄鋼業、造船業へと発展していった。
ビルバオの造船所から生まれた船は世界の海を航海し、ビルバオの鉄鋼は建築物や機械の材料として各地へ運ばれた。街には工場の煙突が立ち並び、昼夜を問わず煙を吐き続けた。労働者たちは丘の上にまでスラム街を築き、ビルバオの人口は1950年の41万人から1981年には95万人へと倍増した。
この経済成長は、ビルバオに莫大な富をもたらした。1890年には証券取引所が設置され、スペインに4か所しかない証券取引所のひとつとなった。商工会議所も同年に設置され、ビルバオはスペイン国内でも有数の経済都市として確固たる地位を築いていた。
しかし、この繁栄には大きな代償が伴っていた。
不名誉なレッテルの定着
工業化の波は、ビルバオに経済的繁栄をもたらした一方で、深刻な環境汚染をもたらした。特にネルビオン川の汚染は凄まじかった。数十年にわたって工場から有害廃棄物が垂れ流され続けた結果、川は無酸素状態に陥り、ほぼ全ての動植物が死滅してしまった。
街を歩けば、工場から排出される煤煙が空を覆い、川からは異臭が漂っていた。旧市街は工場地帯に隣接していたため、その影響を最も強く受けた。建物の壁は黒ずみ、空気は淀み、人々は汚染された環境の中で生活せざるを得なかった。
「ヨーロッパで最も汚染された街のひとつ」という不名誉なレッテルは、こうした状況から生まれた。スペインの他地域の旧市街が、歴史的建造物と美しい街並みで観光客を魅了していたのとは対照的に、ビルバオの旧市街は「臭い、汚い、治安の悪い場所」というネガティブなイメージが定着していった。
サンセバスチャンの美しいラコンチャ湾が観光地として脚光を浴びる一方で、ビルバオは重工業の街、働く場所であって訪れる場所ではなかった。
世界的産業構造の変化がもたらした衝撃
1980年代、ビルバオに転機が訪れる。しかし、それは希望ではなく、絶望の形をしていた。
世界的な産業構造の変化の波が、ビルバオを直撃したのである。グローバル化の進展により、製造業の拠点は次々と新興国へと移動していった。中国や東南アジア諸国は、豊富な労働力と低賃金を武器に、世界の「工場」として急速に台頭した。先進国の重厚長大産業は、もはや国際競争力を失いつつあった。
ビルバオの鉄鋼業と造船業が衰退した理由は、いくつかの要因が複雑に絡み合っている。
第一に、製造コストの問題があった。ビルバオで船を建造するよりも、アジアの造船所で建造する方が遥かに安価だった。鉄鋼製品も同様で、人件費の安い国々で生産された製品が市場を席巻するようになった。
第二に、技術革新のスピードに乗り遅れたことも大きかった。従来の製造技術に固執し、新しい技術への投資を怠った結果、製品の品質や効率性で他国に後れを取るようになった。
第三に、環境規制の強化も影響を与えた。ヨーロッパでは環境保護への意識が高まり、工場の排出基準が厳格化された。これに対応するためのコストが、ビルバオの工場の経営を圧迫した。
結果として、工場や造船所の閉鎖が相次いだ。1980年代のビルバオでは、失業率が25%から35%に達する地域も出現した。かつて街を支えていた労働者たちは、職を失い、街は急速に活気を失っていった。人口減少も深刻化し、若者たちは仕事を求めて他の地域へと流出していった。
ネルビオン川沿いには、閉鎖された工場や崩れかけた倉庫が放置され、ブラウンフィールド(汚染された未利用地)が増加した。汚染された川、荒廃した建物、失業者たち。ビルバオは衰退の一途をたどっていた。
絶望からの転換点 グッゲンハイム美術館という賭け
1990年代初頭、ビルバオの行政と州政府は重大な決断を下した。このまま衰退を続けるか、それとも抜本的な変革に挑むか。選ばれたのは後者だった。
1992年、ビルバオ大都市圏の官民および社会的指導者たちは、人々を中心に据えた新たな戦略的計画の策定に合意した。100万人の人口を擁する30の自治体とともに、経済の再構築と都市の形態の変革を目指す「ビルバオ都市再生プロジェクト」が始動したのである。
このプロジェクトの核となったのが、グッゲンハイム美術館の誘致だった。しかし、この計画は当初から大きな議論を呼んだ。
建設費1億ドル(約100億円)、美術品取得費用5000万ドル(約50億円)、年間運営費1200万ドル(約1億2000万円)。これらすべてをビルバオ県政府とバスク州政府が負担するという計画に、多くの市民は懐疑的だった。「なぜ税金を、たった1つの、しかも私営の美術館に投じるのか」という批判の声が上がった。
街の中心に、銀色に鈍い光を放つ巨大な建物を建てることへの抵抗も強かった。「ビルバオの景観にそぐわない」「工業都市にアートなど必要ない」といった反対意見が噴出した。
しかし、行政側には確信があった。工業都市としてのビルバオはもはや復活できない。ならば、まったく新しいビルバオを創造するしかない。文化とアートを軸とした、全く新しい都市像を世界に示すのだと。
このプロジェクトの背景には、いくつかの重要な要素があった。まず、ニューヨークのグッゲンハイム財団が、ヨーロッパに展示のベースを探していたという偶然の巡り合わせ。そして、バスク地方がそれまでの工業の繁栄によって財政力を持っていたこと。さらに、ビルバオの地理的優位性である。ロンドンやパリ、ベルリンといった大都市から格安航空券で2時間以内にアクセスできる立地は、観光戦略上非常に有利だった。
建築家の選定には、フランク・ゲーリー、磯崎新ら3人の建築家が参加するコンペが行われた。最終的に選ばれたのはフランク・ゲーリーだった。彼のデザインは、魚のうろこをイメージしたチタンパネルで覆われた、これまで誰も見たことがない斬新な建築物だった。
ゲーリーは、ビルバオの歴史を尊重することも忘れなかった。建物の高さを周囲の建物より高くしないよう配慮し、造船の街、工業の街というビルバオの伝統を意識したデザインを取り入れた。曲線だけで構成された建物は、まるで船のようにも見える。
1997年10月、ビルバオ・グッゲンハイム美術館が開館した。

世界が驚いた再生計画がビルバオを救った
開館1ヶ月前、ニューヨーク・タイムズ紙の建築評論家ハーバート・ムシャンは「ビルバオの奇跡」という見出しで記事を掲載した。「ここで起こっている奇跡は、驚くべきことにゲーリーの建築が起こしたものではない。奇跡的な出来事とは、建設を見るためだけに巡礼の旅を行う、人々の贅沢な楽観主義なのである」。
その言葉は現実のものとなった。当初、年間入場者予定は50万人だったが、開館から最初の5年間で実に515万人が訪れた。年平均で計画の2倍以上の入場者数である。開館から1年でビルバオとバスク政府は投資額の62%を、わずか3年で投資額の全額を回収してしまった。
美術館は単なる建築物ではなかった。それは起爆剤だった。美術館の成功に続き、都市再生プロジェクトは加速していった。
ネルビオン川沿いには、サンティアゴ・カラトラバ設計のスビスリ橋(1997年)、ノーマン・フォスター設計のメトロ駅、そしてトラムが開業した。フィリップ・スタルク、ラファエル・モネオらによる大規模な市民ビルも次々と建設された。空港のターミナルビルもカラトラバによって再設計され、翼を広げたような美しいデザインとなった。
磯崎新も「磯崎ゲート」と呼ばれる建築物をビルバオに残した。コンペでは惜しくもゲーリーに敗れたが、彼の才能はこの形でビルバオの街に刻まれることとなった。
そして最も重要だったのが、ネルビオン川の浄化計画である。バスク州と水道局によって推進されたこの計画では、ビルバオ大都市圏100万人の下水を集め、浄化した上で自然環境に戻すという大規模な事業が行われた。総支出額は6億102万ユーロに達した。
かつて無酸素状態だった川には、藻類やウシノシタ、カニ類、水鳥など60種以上の生物が戻ってきた。夏季には海水浴を楽しむ人々の姿さえ見られるようになった。川の再生は、街の再生そのものだった。
「ビルバオ効果」という言葉が生まれたのは、こうした一連の成功を受けてのことである。世界中の衰退都市が「第二のビルバオ」を目指すようになった。政府関係者や建築家たちの視察が絶えることはなかった。

ローカルの生活が息づく路地のリアルさ
しかし、光が強ければ強いほど、影もまた濃くなる。
再開発エリアが輝きを増す一方で、旧市街カスコ・ビエホは複雑な様相を呈している。確かに、新広場(プラザ・ヌエバ)周辺にはバルが立ち並び、夜遅くまで地元民や観光客で賑わっている。サンティアゴ大聖堂やアリアガ劇場といった歴史的建造物も保存され、石畳の路地は中世の面影を残している。
多くの旅行ガイドは「ビルバオの旧市街は治安が良い」と記している。実際、警察の巡回も頻繁で、夜10時を過ぎても多くの人が歩いており、深刻な危険を感じることは少ない。バスク地方は経済的に豊かな地域であるため、スペインの他の観光都市と比べて治安は良好だという声も多い。
しかし、旧市街のすべてが安全というわけではない。サンフランシスコ通り周辺は、現地在住者からも注意が必要なエリアとして認識されている。特に夜間の単独行動は避けるべきだとされ、深夜に旧市街のバルを楽しんだ後は、タクシーを利用することが推奨されている。
投資の集中による格差
では、なぜこれほど極端な違いが生まれたのか。
第一に、投資の集中の問題がある。ビルバオ都市再生プロジェクトに投じられた総額は15億ドルとも言われているが、その大部分は新市街とネルビオン川沿いの再開発エリアに集中した。グッゲンハイム美術館をはじめとする象徴的なプロジェクトは、すべて川沿いの元工業地帯に配置された。
旧市街への投資は相対的に少なかった。歴史的建造物の保存や一部のバルの改装は行われたが、インフラの全面的な更新や社会的な問題への対処は十分ではなかった。
第二に、歴史的な構造の違いがある。旧市街は中世から続く複雑な路地と古い建物で構成されており、全面的な再開発は物理的にも文化的にも困難だった。一方、元工業地帯は更地に近い状態だったため、自由にデザインすることができた。
第三に、住民構成の違いも影響している。旧市街には長年そこに住み続けている住民が多く、社会経済的な問題も複雑に絡み合っている。一方、再開発エリアは新しく作られた場所であり、社会構造もシンプルだった。
第四に、象徴的価値の問題もある。グッゲンハイム美術館という世界的に注目される施設を中心とした再開発エリアは、ビルバオの「新しい顔」として世界に発信する必要があった。そのため、徹底的に美化され、管理された空間が作られた。旧市街は「古い顔」として、ある意味では後回しにされた感がある。

都市再生の成功と限界
ビルバオの再開発エリアと旧市街の極端な違いは、都市再生の成功と限界の両方を示している。
成功の側面は明らかである。「ヨーロッパで最も汚染された街のひとつ」から「世界が注目する文化都市」への変貌は、まさに奇跡と呼ぶにふさわしい。グッゲンハイム美術館の建築は、建物それ自体がアート作品となり、街の象徴となった。ネルビオン川の浄化は、環境再生の成功例として世界中で引用されている。
再開発エリアを歩けば、確かに未来都市のような洗練された空間が広がっている。川沿いの遊歩道は整備され、ジョギングや散歩を楽しむ人々で賑わっている。カフェやレストランも充実し、治安も良好だ。世界的な建築家たちが手がけた建物は、まるで屋外美術館のようだ。
しかし、限界もまた明白である。旧市街の一部に残る社会的問題は、華やかな再開発の陰で見過ごされてきた。すべての地区が均等に恩恵を受けたわけではない。新しいビルバオと古いビルバオの間には、依然として溝が存在している。
バルセロナやマドリードの旧市街が、歴史的建造物と観光地としての魅力で知られているのに対し、ビルバオの旧市街はいまだに「注意が必要な場所」という側面を持っている。確かに状況は改善されたが、完全な変貌を遂げたとは言えない。
二つのビルバオが共存する今をどう見るか
ビルバオが私たちに問いかけているのは、都市再生とは何かということだ。
それは単に美しい建築物を建てることではない。環境を浄化することでもない。観光客を呼び込むことでもない。もちろん、これらはすべて重要な要素だが、本質はそこにはない。
真の都市再生とは、そこに住む人々すべてが尊厳を持って生きられる環境を作ることではないだろうか。光が当たる場所だけでなく、影の部分にも目を向けること。華やかな再開発エリアだけでなく、旧市街の隅々にまで目配りをすること。
ビルバオの挑戦は、まだ終わっていない。グッゲンハイム美術館の開館から四半世紀以上が経過した今も、この街は進化を続けている。かつての廃墟となった工業ビル群が残るソロサウレ地区では、故ザハ・ハディッドのマスタープランのもとで再開発が進行中だ。
そして、旧市街もゆっくりと変化している。バルやレストランの質は向上し、ミシュラン星付きのレストランも旧市街に進出している。若い世代がこの歴史ある地区の魅力を再発見し、リノベーションされたアパートメントに住み始めている。
ビルバオは、完璧な成功例ではない。しかし、だからこそ学ぶべきことが多い。光と影、新しいものと古いもの、成功と課題が混在するこの街は、都市というものの複雑さと奥深さを体現している。
未来を切り開く新地区と歴史を守る旧地区の行方
日本を含む世界中の多くの都市が、産業構造の転換という課題に直面している。かつて栄えた工業都市が衰退し、若者が流出し、街が活気を失っていく。この問題に対して、ビルバオは一つの答えを示した。
それは、過去を否定するのではなく、過去を土台にして新しい未来を築くということ。工業都市としてのアイデンティティを完全に捨て去るのではなく、それを文化的な資源として再解釈すること。一つの象徴的なプロジェクトをきっかけに、街全体を変えていくこと。
グッゲンハイム美術館の建築には、ビルバオの造船の伝統が反映されている。磯崎ゲートやスビスリ橋といった現代建築も、工業都市の記憶を内包している。ネルビオン川の浄化は、単なる環境対策ではなく、街の魂を取り戻す行為だった。
しかし同時に、ビルバオは課題も示している。再開発の恩恵は必ずしも全ての地区、全ての人々に平等に行き渡らないこと。華やかな成功の裏には、取り残された場所や人々がいること。光が強すぎれば、影もまた濃くなること。
旧市街の一部に残る不安な雰囲気は、この現実を象徴している。Bilboko Berreginen Museoa周辺で感じた違和感は、決して偶然ではないのかもしれない。それは、都市再生の限界を示す一つのシグナルなのかもしれない。
だが、それでもビルバオの試みは称賛に値する。なぜなら、諦めなかったからだ。「ヨーロッパで最も汚染された街のひとつ」という絶望的な状況から、ここまで復活を遂げたという事実は、どんな街にも希望があることを示している。
完璧でなくてもいい。光と影が共存していてもいい。重要なのは、より良い未来に向かって歩み続けることだ。ビルバオは今もその歩みを止めていない。
グッゲンハイム美術館のチタンパネルが朝日を受けて輝くとき、ネルビオン川に魚が泳ぐとき、旧市街のバルに人々の笑い声が響くとき、ビルバオは確かに変わったのだと実感する。しかし、まだ変わり続けている最中なのだとも。
その不完全さこそが、ビルバオの真の魅力なのかもしれない。完成された美しさではなく、変化し続けるダイナミズム。光と影のコントラスト。過去と未来の対話。これらすべてが、ビルバオという街を唯一無二の存在にしている。
再開発エリアの輝きと、旧市街に残る影。この極端な違いは、ビルバオが歩んできた道のりそのものを表している。そして、これから歩むべき道をも示唆している。全ての場所に光を届けること。それがビルバオの次の挑戦だ。
スペイン北部の小さな工業都市が世界に示した奇跡と課題。それは、21世紀を生きるすべての都市への、希望と警鐘のメッセージである。
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