マドリードでもバルセロナでもない。スペインの起源「緑の秘境」アストゥリアス

スペイン北部に位置するアストゥリアス州は、多くの日本人にとって馴染みの薄い地域かもしれない。バルセロナやマドリード、セビリアといった華やかな観光地の影に隠れがちなこの土地だが、実はスペインという国家の成り立ちを語る上で欠かせない重要な場所なのだ。ビスケー湾に面した緑豊かなこの地域には、1000年以上にわたる独自の歴史と文化が息づいている。

「レコンキスタ」800年の歴史は、この小さな戦いから始まった

718年、アストゥリアスの山間部で1つの戦いが起こった。コバドンガの戦いと呼ばれるこの小規模な衝突は、後のスペイン史を決定づける出来事となる。当時、イベリア半島の大部分はイスラム勢力の支配下にあった。711年にウマイヤ朝がジブラルタル海峡を渡ってきてからわずか数年で、西ゴート王国は滅亡し、半島のほぼ全域がムスリムの手に落ちていた。

しかし、北部の険しい山岳地帯には、征服を逃れたキリスト教徒たちが逃げ込んでいた。その中にペラーヨという人物がいた。彼は西ゴート王国の貴族だったとも、単なる地方の有力者だったとも言われる。史料が乏しく、彼の正確な出自は今も謎に包まれている。ペラーヨは山岳地帯に籠もったキリスト教徒たちを率いて、イスラム軍の遠征隊と戦った。

コバドンガの戦いの規模については、研究者の間でも意見が分かれる。イスラム側の記録では、単なる小競り合い程度の扱いだ。一方、キリスト教側の年代記では奇跡的な大勝利として描かれている。真実はおそらくその中間だろう。小規模ながらも、山岳地帯の地の利を活かしてイスラム軍を撃退したことは確かだ。

この勝利の後、ペラーヨはアストゥリアス王国を建国した。領土はごく限られた山間部のみで、当時の基準では王国と呼ぶのもおこがましいほどの小国だった。しかし、この小さな王国こそが、後に800年近く続くレコンキスタ、つまりキリスト教徒によるイベリア半島再征服運動の起点となるのだ。

なぜ、アストゥリアス人は「独立」を望まないのか?

歴史の教科書でレコンキスタを学ぶとき、多くの人はカスティーリャ王国やアラゴン王国の名前を覚える。1492年、グラナダを陥落させてレコンキスタを完成させたカトリック両王、イサベルとフェルナンドの物語は有名だ。しかし、すべての始まりがアストゥリアスにあったことは、しばしば省略されてしまう。

実際、アストゥリアス王国は10世紀になるとレオン王国へと発展的に移行し、その後カスティーリャ王国に吸収されていく。政治的な中心地は次第に南へ移動し、アストゥリアスは辺境の地となった。だが、この地の人々は自分たちこそがスペイン再征服の源流であるという誇りを、今日まで持ち続けている。

興味深いのは、アストゥリアスの人々が独立を主張しないことだ。同じスペイン北部のバスク地方やカタルーニャ地方では分離独立運動が盛んだが、アストゥリアスではそうした動きはほとんど見られない。むしろ、自分たちこそが真のスペインの発祥地であり、スペインの核心だと考えている。この自己認識が、地域のアイデンティティを形作っている。

世界遺産なのに観光客が来ない理由

アストゥリアス王国時代の9世紀から10世紀にかけて、この地では独特の建築様式が花開いた。前ロマネスク様式と呼ばれるこの建築群は、ヨーロッパ建築史の中でも特異な位置を占めている。

首都オビエドの郊外、ナランコ山の斜面に建つサンタ・マリア・デル・ナランコ教会は、その代表例だ。もともとは842年に建てられた王の離宮だったが、後に教会に改築された。外から見ると、2階建ての小さな建物にしか見えない。しかし、中に入るとその精巧さに驚かされる。

天井を支える柱には繊細な彫刻が施され、窓からの光が石造りの壁に複雑な陰影を作り出す。当時、イベリア半島の大部分でイスラム建築が隆盛を極めていた時代に、この山間部では西ゴート時代の伝統を受け継ぎながら、独自の様式を発展させていたのだ。

ユネスコはこうしたアストゥリアスの前ロマネスク建築群を世界遺産に登録している。しかし、観光客の数は決して多くない。マドリードから300キロメートル以上離れていることもあり、アクセスの悪さが原因の1つだろう。だが、建築や歴史に興味のある人々にとって、この静けさこそが魅力となっている。1000年以上前の建物の中で、観光客の喧騒に邪魔されることなく、じっくりと時間を過ごせるのだ。

スペイン内戦の「予兆」となった、炭鉱労働者の熱い記憶

19世紀後半から20世紀にかけて、アストゥリアスは炭鉱の町として栄えた。山間部に豊富な石炭が眠っており、スペインの工業化を支える重要な資源となった。多くの労働者が坑道で働き、この地域の経済を支えた。

しかし、炭鉱労働は過酷だった。暗く狭い坑道での長時間労働、粉塵による健康被害、事故の危険。こうした劣悪な環境の中で、労働者たちは次第に団結していった。アストゥリアスは、スペインにおける労働運動の中心地の1つとなる。

1934年10月、アストゥリアスで大規模な労働者蜂起が起こった。中道右派政権に対抗して、社会主義者と無政府主義者が一時的に手を組み、武装蜂起に踏み切ったのだ。炭鉱労働者たちは州都オビエドを占拠し、一時的に自治政府を樹立した。

しかし、中央政府の反応は素早く、そして容赦なかった。政府は若き将軍フランシスコ・フランコに鎮圧を命じた。フランコは外人部隊を投入し、わずか2週間で蜂起を鎮圧した。その過程で1000人以上が死亡し、数千人が逮捕された。この事件はスペイン内戦の前哨戦とも言われ、2年後に始まる悲劇的な内戦の予兆となった。

内戦が始まると、アストゥリアスは共和国側の重要拠点となった。しかし1937年、ナショナリスト側の攻撃によって陥落し、フランコの支配下に入る。内戦後のフランコ独裁時代、炭鉱は引き続き操業を続けたが、労働運動は厳しく弾圧された。

1970年代後半にフランコが死去し、スペインが民主化されると、アストゥリアスでも大きな変化が起こった。しかし、新たな問題も生じた。ヨーロッパ全体でエネルギー政策が転換し、石炭需要が減少したのだ。1980年代から90年代にかけて、次々と炭鉱が閉山した。

かつて炭鉱で栄えた町は、急速に活気を失った。失業率が上昇し、若者たちは仕事を求めて都会へ出ていった。炭鉱労働者の誇りを持っていた人々は、新しい時代への適応を迫られた。今日、かつての炭鉱の多くは廃墟となっているが、一部は産業遺産として保存され、博物館となっている。

公用語になれない「保護される言語」の葛藤

アストゥリアスには、独自の言語がある。アストゥリアス語、またはバブレと呼ばれるこの言語は、スペイン語とは異なる文法と語彙を持つ。ラテン語から派生した言語で、カスティーリャ語(いわゆるスペイン語)とは姉妹関係にある。

しかし、アストゥリアス語を日常的に使う人は減少している。公式には約10万人が話者とされるが、若い世代での使用率は低い。学校教育は基本的にスペイン語で行われ、テレビやインターネットもスペイン語が主流だ。アストゥリアス語は主に農村部の高齢者の間で使われるにとどまっている。

興味深いのは、アストゥリアス語がスペインの公用語として認められていないことだ。バスク語やカタルーニャ語は、それぞれの自治州で公用語の地位を得ているが、アストゥリアス語は「保護される言語」という曖昧な位置づけだ。公的文書や道路標識は、ほぼすべてスペイン語のみで表記されている。

それでも、言語を守ろうとする動きはある。アストゥリアス語での文学作品が出版され、音楽グループが伝統的な歌を歌い継いでいる。一部の学校では選択科目として教えられている。方言や地域言語の保存は、グローバル化が進む現代において世界共通の課題だ。アストゥリアスの状況は、その一例と言えるだろう。

海岸を歩く巡礼で出会う静けさと実感

スペイン北部を横断するサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路は、世界的に有名だ。フランスから国境を越えてスペインに入り、最終目的地のサンティアゴを目指すこの道は、中世から続く巡礼の伝統を今に伝えている。

アストゥリアスにも巡礼路が通っている。北の道と呼ばれるルートがそれで、海岸沿いを進む。より一般的なフランス人の道に比べると、歩く人は少ないが、その分静かで自然豊かな景色を楽しめる。

巡礼者たちは1日20キロメートルから30キロメートルを歩き、夜は宿に泊まる。アルベルゲと呼ばれる巡礼者専用の安宿が各地にあり、数ユーロで泊まれる。地元の教会やボランティア団体が運営していることが多い。

巡礼路を歩くのは、必ずしも信仰心からだけではない。自分を見つめ直す時間が欲しい、日常から離れたい、体を鍛えたいなど、動機は様々だ。近年は日本人の巡礼者も増えている。長い距離を歩き続けることで、心身ともに変化を感じる人が多いという。

アストゥリアス区間では、山と海の景色が交互に現れる。小さな村を通り過ぎ、時には牛の群れに道を譲りながら進む。地元の人々は巡礼者に親切で、道を尋ねると丁寧に教えてくれる。巡礼路は、観光とはまた違った形で、この地域を知る機会を提供している。

リモートワーク移住者が見出した新しい価値

21世紀のアストゥリアスは、大きな転換期を迎えている。炭鉱と重工業に依存していた経済は終わりを告げ、新しい産業への移行が求められている。観光業、サービス業、そして再生可能エネルギー産業などが、新たな柱として期待されている。

人口減少も深刻な問題だ。アストゥリアス州の人口は約100万人だが、高齢化が進み、若者の流出が続いている。特に農村部では、過疎化が顕著だ。空き家が増え、伝統的な村の風景が失われつつある。

一方で、こうした状況を逆手に取る動きもある。都会の喧騒から逃れて、田舎での生活を求める人々が、アストゥリアスに移り住むケースが増えている。古い家を改装してゲストハウスを始めたり、有機農業を始めたりする人たちだ。コロナ禍以降、リモートワークが普及したことも、こうした動きを後押ししている。

食の面では、地元産の食材を使った料理が見直されている。若いシェフたちが、伝統的なアストゥリアス料理を現代風にアレンジし、新しい美食文化を創造している。こうした動きは、地域のブランド価値を高めることにも繋がっている。

環境保護の分野でも、アストゥリアスは注目を集めている。豊かな自然環境を保全しながら、持続可能な開発を目指す取り組みが進められている。特に、生物多様性の保護と、それを活かしたエコツーリズムの推進が重点課題となっている。

スペインの中の”異端者”アストゥリアスが問いかけるもの

アストゥリアスは、スペインという国の多様性を象徴する地域だ。フラメンコも闘牛もない。乾燥した大地ではなく、緑豊かな丘陵が広がる。シエスタの習慣も、他の地域ほど根付いていない。むしろ、気候や風土は大西洋岸のガリシアや、さらには北フランスに近い。

この地域性は、時に複雑なアイデンティティを生み出す。自分たちはスペイン人なのか、それともアストゥリアス人なのか。多くの住民は、両方だと答えるだろう。スペインという国家への帰属意識と、地域への愛着は矛盾しない。

王室との関係も特殊だ。スペイン王位継承者には、伝統的に「アストゥリアス公」の称号が与えられる。これは、アストゥリアスがスペイン王国の起源であることを象徴している。現在の王位継承者、レオノール王女もアストゥリアス公の称号を持つ。毎年、オビエドでは「アストゥリアス公賞」という権威ある賞の授賞式が行われ、王族も出席する。

しかし、こうした歴史的・象徴的な重要性にもかかわらず、アストジリアスは政治的・経済的には必ずしも中心的な位置にあるわけではない。マドリードやバルセロナに比べれば、存在感は薄い。それでも、あるいはそれゆえに、独自の文化と生活様式を守り続けてきたとも言える。

この地を訪れる旅行者は、スペインの別の顔を発見することになる。太陽が降り注ぐビーチリゾートとは違う。中世の面影を残す静かな町並み。山と海が織りなす変化に富んだ風景。素朴だが深い味わいの料理。そして、長い歴史を背負いながらも、未来を模索し続ける人々の姿。

アストゥリアスは、有名観光地のような華やかさはないかもしれない。しかし、ゆっくりと時間をかけて向き合えば、この土地は豊かな物語を語りかけてくれる。それは1000年以上前の小さな戦いから始まり、今も続いている物語だ。

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