スーパーの入り口で立ち止まる瞬間
スペインの街を歩いていると、どの町でも必ずと言っていいほど見かける光景がある。
それはスーパーの入り口や市場の門の前に座り込む物乞いの姿だ。
買い物袋を抱えた人々が行き交う中、彼らは小さな紙コップや帽子を前に置き、静かに手を差し出している。
この光景は観光客にとって「異国の社会問題」として映るかもしれないが、スペインの日常に深く根付いた風景でもある。
彼らをどう見るかは、人によってまったく異なる。
哀れに感じる者もいれば、警戒する者もいる。
あるいは、何気なくコインを落として通り過ぎる者も多い。
だがこの行為には、「日本とは異なる慈悲の感覚」と「社会的共存の文化」が潜んでいる。
そこには、スペインという国の長い歴史と宗教観、そして経済の影が交錯しているのだ。
スペインにおける「乞う」ことの意味
1. カトリックの慈悲と「施し」の文化
スペイン社会を語るうえで欠かせないのが、カトリックの教えに根ざした慈悲の精神である。
キリスト教では古来、「貧しき者に施しをすること」は信仰行為のひとつとされてきた。
中世の修道士や聖職者たちは、施しを受ける側の存在を「神の試練」として受け止めた。
つまり、物乞いは社会の「外れ者」ではなく、「信仰を実践する機会」を与えてくれる存在だったのだ。
その文化的残響は、現代のスペインにも生きている。
たとえばマドリードやバルセロナのスーパー前で、コインを数枚手渡す年配の人々をよく見かける。
彼らは慈善団体のメンバーでもなければ、特別な使命感を持つわけでもない。
ただ「困っている人がいるなら少し助けるのが自然」という、半ば無意識の感覚で行動しているのだ。
日本のように「あの人は働けばいいのに」という倫理的な評価よりも、まず「目の前の苦しみを軽くする」という宗教的な慈悲が先に立つ。
2. スペイン人の「情の幅」
スペイン人は一般に感情表現が豊かで、見知らぬ人にもよく声をかける。
それは施しの場面でも同じだ。
「¿Tienes hambre?(お腹すいてる?)」と聞き、パンを半分に割って渡す。
それは同情ではなく「同じ人間として当たり前の行為」という自然体の優しさである。
この「自然な慈悲」は、日本人の「恥の文化」と対照的だ。
日本では「乞うこと」は恥であり、「施すこと」は特別な善行である。
しかしスペインでは、乞うことも施すことも、社会の一部として受け入れられている。
物乞いの顔ぶれ ― 誰がそこに座っているのか
1. 伝統的な「路上の常連」
長年スーパー前に座り続ける「常連」もいる。
彼らは地域住民に顔を覚えられ、日々のやりとりすら生まれている。
「おはよう」「寒いね」と挨拶を交わし、時にパンや果物を渡す。
それはもはや「物乞い」と「施し主」という関係を超えた、地域の一部のような存在である。
あるサンセバスチャンの女性物乞いは、近隣の人々に「マリア」と呼ばれていた。
彼女は毎朝同じ時間に来て、夕方には帰る。
ときに子どもたちに飴を配り、観光客には軽く笑いかける。
地元の人は「マリアはこの通りの守り神のようなもの」と話す。
こうした物乞いは「社会の周縁」にいながらも、「共同体の中」で認知されているのだ。
2. 東欧・アフリカ・中東から来た人々
一方、近年増えているのが東欧(ルーマニア、ブルガリアなど)やアフリカ出身の物乞いである。
EUの移動自由化によって、貧しい地域から西欧に流れてきた人々が多い。
彼らの多くは労働ビザを持たず、仕事も家も安定しない。
そのため、スーパーの出入口は「とりあえず安全にいられる場所」として選ばれる。
警察に追い出されることもあるが、多くの場合、短時間なら黙認されている。
彼らの中には、家族を養うために一時的に物乞いをしている人もいれば、旅をしながら路上で生活する「流浪の旅人」タイプもいる。
ボヘミアン風の服を着た若者が犬を連れて座り、ギターを片手に「お金ではなくパンを」と書いた紙を掲げていることもある。
このような「旅する物乞い」は、宗教的・文化的背景よりも「生き方の選択」として路上を選んでいるケースがある。
トップ・マンタよりも稼げる現実
1. 「トップ・マンタ」との比較
スペインの街中では、「トップ・マンタ」と呼ばれる移動商人たちもよく見かける。
彼らはシートの上に偽ブランドのバッグやスニーカーを並べ、警察が来るとすぐ逃げる。
主にセネガルやマリ出身の移民で構成されているが、稼ぎは不安定で、リスクも高い。
一方、物乞いは商品も仕入れず、警察からの取り締まりも緩い。
場所さえ確保できれば、一定の収入を得ることができる。
マドリードのある調査によれば、スーパー前の物乞いの平均日収は約20~30ユーロ。
一方のトップ・マンタは、天気や人出に左右され、日収10ユーロにも満たない日があるという。
皮肉なことに、違法販売よりも「静かに座っている方」が経済的に効率的なのだ。
2. 「稼ぎ方の熟練」
物乞いの中には「演出」に長けた者もいる。
膝をつき、十字架を握りしめて祈る姿勢を取る人。
犬や子どもを隣に置いて「家庭の物語」を演出する人。
さらにはスマートフォンを持ち、電子決済のQRコードを掲げる人までいる。
その多様さは、もはや「路上の経済活動」と呼ぶべきレベルである。
与える人々 ― 慈悲か、自己満足か
1. 老人たちの「日課としての施し」
スペインの年配者、とくにカトリック信仰が強い層は、日常的に小銭を渡す。
彼らにとって施しは「習慣」であり、「信仰実践」である。
スーパーの入口で財布を開き、1ユーロ硬貨を落とす。
その瞬間、相手が「Gracias(ありがとう)」と笑う。
その笑顔に対して「De nada(どういたしまして)」と返す。
この一連の行為が、彼らの「日常の祈り」になっている。
2. 若者や外国人の反応
一方、若者や観光客はその光景に戸惑うことが多い。
「本当に困っている人なのか?」という疑念が先に立つ。
SNSやメディアで「物乞いの一部は組織化されている」という話が流れ、警戒心を強める人もいる。
しかし、あるスペインの大学生はこう語る。
「たとえ演技だったとしても、私が助けたいと思うなら、それでいい。
本物かどうかは神しか知らない。」
そこには、スペイン人特有の「他者の内面を裁かない」姿勢がある。
彼らは「施すことの意味」を、相手の真偽ではなく、自分の心の在り方で測るのだ。
路上の哲学と社会の影
1. 物乞いの「静かな抵抗」
物乞いは、社会から排除されながらも「存在を主張」している。
スーパーの入口という「生活の交差点」に座ることで、「ここに貧困がある」という事実を可視化しているのだ。
それは無言のデモンストレーションでもある。
路上の静けさの中に、社会の矛盾が浮かび上がる。
2. 経済格差の裏側
スペインは観光業が盛んで、街は華やかに見える。
だが一方で、失業率は若者を中心に依然として高く、地方では貧困が根強い。
住宅費の高騰、移民の流入、社会保障の限界――
これらが重なり、「路上で生きる人々」を生み出している。
物乞いはその最前線にいる存在であり、「社会の鏡」とも言える。
風景の一部としての物乞い
スペインのスーパーの入口に座る物乞いは、もはや日常の風景の一部である。
観光客にはショッキングでも、地元の人にとっては「そこにいるのが当たり前」になっている。
それは決して冷淡さではなく、「共存のかたち」なのだ。
スペインでは、善意と貧困が同じ場所に同居している。
人は買い物をし、誰かは施しを受け、誰かは祈りを捧げる。
その循環の中に、「人間らしさ」と「社会の矛盾」が同時に息づいている。
日本人の目から見れば不思議な光景かもしれない。
しかし、それこそがスペインという国の「慈悲のリアリズム」であり、
宗教・歴史・社会が長い時間をかけて築いた、人間の自然なあり方なのである。